トップ > ドラゴン大年表 >1953    ※おねがい  このページは、できるだけ、左右を広げてご覧ください。 なお原則として「敬称略」でございます。

 ドラゴン・炎の飛龍・大年表 

  「誕生」から、「少年期」を経て「日本プロレス」時代まで

 人と争うことが嫌いな、おだやかな家庭に育った内気な少年が、プロレスラーをめざした。九州に巡業に来た日本プロレスに入門し、「ぼうや」と呼ばれながら、猪木の付き人になり、 ついに、デビューするまで。 この項では、藤波の生い立ちから、日本プロレス入門、デビューから、飛び出す(!)まで、豊富なエピソードとともにお楽しみください。


●昭和28年(1953年)  誕生から卒業・日本プロレス時代まで




 
 月日
藤波選手を中心としたプロレス関連の主な出来事
試合・大会関連  タイトルマッチ  トピックス 主なエピソードなど
新日本プロレス・全日本プロレス・国際プロレス・世界のプロレス
藤波さんの「誕生」から 「プロレス入り」まで、いわゆる「おいたち」の章です。
そのため、この後の「総目録・大年表」とは構成が違います。
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リンクや
関連記事の紹介
●昭和28年(1953年)  誕生・ 「おいたち」から 中学卒業まで
昭和28年(1953年)
12月28日
藤波さん誕生!昭和28年12月28日(月)

 大分県東国東郡武蔵町(ひがしくにさきぐん むさしまち)に生まれる。本名「藤波辰巳」 
  兄3人姉2人の6人兄弟 の末っ子。やぎ座・O型。

 家業の炭焼きをしている父親に、母親特製のお弁当を届けるのが、藤波少年の役目だった。
 父親は、その当時の父親としては珍しく、手をあげない人で、兄弟でも取っ組みあいのない、おだやかな家庭に育った。藤波は、明るく元気な少年で、ケンカらしいケンカもせず、人と争うことが大嫌いであったという。(※おだやかな家庭に生まれ育ったことは、後年のおだやかな藤波の性格が、この家庭で育まれたといってよいでしょう)

 甘えん坊で、一説によると「小学校入学まで母親の乳房を離さなかった」とも。           
 ※2007年のテレビ番組で、藤波の実の母(トヨさん)が、「小学2年まで、乳をくわえとった」と証言。 藤波自身は「まあ、いいじゃあないですか(笑)」とことばを濁している。事実のようである。

  ※ちなみに、12月28日生まれの有名人としては
   石原裕次郎 (1934年) 渡哲也(1941年) 
  同年同日としてはリチャード・クレイダ〜マン♪(1953年12月28日)がいる。  

  
また、12月28日生まれの人の「性格は」 リンク   
  ●この日に生まれた人は知的な魅力があり、感受性豊かで人あたりがよく、仕事熱心です。
  ●博識で新しいことに対し情熱を燃やすタイプです。
 ●機敏で機知に富み社交的で頭脳明晰なあなたですが、優柔不断で心配症なのが玉にきずです。
故郷をたづねて
(2007年NHKテレビ)
「食菜浪漫」の内容紹介ページ
にリンク
小学生時代

 小学生時代

  小学校1年生の時は病気(ジフテリア)のために欠席も多かったが、やはり、けんかをすることもなく、どちらかといえば、めだたない子どもでもあった。

  藤波のお母さんの話
「十一月になっても半袖、半ズボンで川に入ってるんですよ。無茶するから、ジフテリアにかかって、1学期近く休んだこともあります。でもその後は病気ひとつしなくなりました。末っ子だから甘ったれでしたよ」(1984年「ナンバー」誌)

  再びお母さんの話「気性のやさしい子で、年下の子どもたちにとても、人気がありました。この子が家に帰るのを待って、みんな集まってくるんですよ。そんなのを引き連れて、よく遊んでいました。将来は幼稚園の先生にでもなると思っていました」


  プロレス好きな兄の影響もあり、テレビでプロレス観戦。まだ各家庭にテレビがなかった時代で藤波も近所のテレビのある家に見に行った。このころは、プロレス中継を見る人で、その家の玄関まであふれていたという。藤波はその最後列近くで、「遠くに青白く光るテレビ」を見つめていたという。「大人の肩越しに見ることもありました。それくらい人気でしたね」(藤波2012)


  小学校3年生のときに兄と、大分市体育館に観戦に行く。このとき、力道山とコワルスキーの対戦に大興奮する。 (※編者注。この藤波のプロレス観戦歴については異説もあります。2018年現在、FBやインターネットの発達で直接尋ねることもありますが、なかなか遠い記憶になっているようです)
  なお、藤波家にテレビが来たのは、小学6年生のころと、別のインタビューで藤波が答えている。

  小学校高学年時も、勉強するより、「魚とり」など、むしろ遊びが中心の「自然と遊ぶ」元気なこどもの生活であった。
  藤波「自然がジムでしたね。野原や山や川沿いを走り回ってました」また、
  藤波「農業のかたわら、親父が林業で炭焼きもやってました。手伝って、マキを割ったり、してましたね」(2012)(※後年、藤波さんが語る「教育論」の原点がこのあたりにありそうです)

                  
   このころ、兄と野良仕事をしながら、空を行く飛行機を見上げて、
   「俺も、いつか、飛行機に乗れるような人間になりたい」と話したという。当時、飛行機に乗るのは出世した者で、藤波少年にとっては夢のような世界であった。(※「飛行機に乗れる人って、どんなに偉い人なんだろう」と、当時、編集者cacao86 も思っていました)

中学生の頃 中学生の頃   


  中学では「陸上部」の短距離ランナーとして活躍。陸上部の練習は大変熱心だった。

  ※通学途中にある堰の上を近道して渡り、それを、近所の者が見ていて、「また、藤波の馬鹿が渡ってゆくぞ」といわれていたと、藤波自身が証言している(2007年のテレビ番組にて)

 あこがれの女生徒にも声をかけられない内気な少年であったという。(のちのテレビ番組「初恋談義」でも証言)

           
               「どこへ行くのも自転車でした」

 進路について 「中学2年から3年生にかけて、プロレスラーになるんだ、という気持ちがどんどん大きくなりました」(藤波)「僕らの頃でも、進学せずに就職するのは少なかったですけど」

   毎週、テレビで「プロレス中継」を見るたびに「プロレスラー」になりたい、との気持ちが強くなり、雑誌「プロレス&ボクシング」をむさぼるように読んだ。     

  ・藤波の「プロレス観戦」について

 中学3年生のとき、大分市にプロレスを見に行く。ひとりで自転車でゆき、父に怒られるも、大好きなアントニオ猪木のファイトに大満足。キラー・コワルスキーのファイトに驚く。(1990年のテレビ番組インタビューより)(※編者注・昭和43年春、第10回ワールドリーグシリーズか。このとき藤波は中学3年生)  
                                           
  また、「兄とともにプロレス観戦では、ゴリラ・モンスーンのファイトが印象深い。」と記述があるので、昭和41年秋(藤波・中学1年)のダイヤモンドシリーズまたは昭和44年春の第11回ワールドリーグ(藤波中学卒業直後)となる)

  なお、著書「未完のレジェンド」では「はじめて生観戦したのは中学3年生のとき」で「猪木が優勝した第11回ワールドリーグも見に行った」とある。この第11回ワールドリーグは、猪木がマルコフに勝ち初優勝したが、このときにもゴリラ・モンスーンが参加しており、おそらく、このあたり、若干の記憶の混乱が見られるのかもしれない。

  畑仕事を手伝う際に、牛のかわりに鋤きを引っ張り身体を鍛える。「猪木さんだって、つらい練習に耐えて、がんばっているんだ」と、自分に言い聞かせて、稲刈りが終わっあとの田圃で受け身の練習もして、身体中が傷だらけになったこともあった。(※編者注・つらいとき、苦しいとき、「猪木だってがんばっているんだ」と自分を励ます心情。当時のプロレスファン共通の感情と思います。藤波さんの場合、それが憧れから、実現する方向にゆくのがすごい)
           
  

昭和43年 昭和43年 

 中学3年生で、進路を考えるに当たり、父に「プロレスラーになりたい」と言って叱られる。当然ながら、先生からも怒られた。
       先生の話 「ばかたれ!」

 このころ藤波は、はじめてレコードを買った。舟木一夫の「高校3年生」で、無意識に「高校生にあこがれていたのかも」と後に語っている。

  修学旅行で訪問した大阪城に感激し、このときから「お城ファン」になる。

「日本プロレス」には、何度も履歴書を送るが、返事はなかったという。  藤波「なしのつぶてでした」

昭和44年 昭和44年3月に中学を卒業し、4月から、地元の国東にある職業訓練校へ通う。そこで、自動車の板金塗装を中心に実習中心の授業を受け、ガス・電気・溶接の免許を取得した。 

自分としては、「プロレスに入るための準備期間」と考え、(でも「親としては、手に職をつける」と思っていたでしょうけど)と位置付けていたという。 ※この項目は、2010年の藤波著「藤波辰爾自伝・未完のレジェンド」による。同書により、はじめて明らかになった。

「このころの実習で、僕たちが修理することになった車の人は、気の毒でしたね(笑)」(2016年新潟市の講演で)

 この頃のことを思い返して、藤波 「人と争うということが嫌いで、人に対しての恐怖心といったものが、僕をプロレスに導いてくれたんです。」と。

 ※このころの日本プロレスは、ジャイアント馬場が中心で、アントニオ猪木とのタッグは「世界最強」であると認識されていた。日本テレビは、力道山以来、プロレス中継を独占していたが、これにNET(現・テレビ朝日)が中継をはじめたのが69年5月で、エースにアントニオ猪木を抜擢、馬場は日本テレビだけが独占し、猪木は両テレビに登場した。
 この年の12月には、ドリーの持つNWA世界ヘビー級選手権に、猪木が挑戦。左手の薬指を骨折した中で、若さと躍動感あふれる試合を展開し、60分フルタイム引き分けとなった。大阪でのその試合につづき、翌日は東京で馬場が挑戦。1−1で引き分けた。

●昭和45年(1970年) 16歳 ついに「日本プロレス」に入門。プロレスラーめざして、始動!
昭和45年(1970年) 16歳

・4月

・4月  職業訓練校を卒業して、大分市の「松本自動車整備工場」に就職。寡黙でまじめな勤務態度であったという。 (※1979年インタビュー記事による) 仕事を終えたあと、ボディビルに通い、身体を鍛えた。
 ※なお、2007年のスポーツ新聞の記事によると)中学を卒業するといったん、別府市の自動車修理工場「松本自動車」に就職した。同社の松本政一元社長(86)が振り返る。
 松本さんの話「仕事ぶりもまじめ一筋だったが、どんなに疲れていても、毎日夕方5時半になると 大分市へ練習に出掛けていった」

・5月
 6月

 ・5月  別府温泉の旅館「湯狩荘」に北沢選手を訪ねる。北沢選手は足の故障で別府で湯治していた。このときに 北沢選手から、「次の興行(下関大会)へ来るように」言われたという。
 (なお、ここで北沢選手に出会って、「そのまま巡業に付いていった、という話(伝説)もあるが、さすがにそうではない)
「国東から別府まで、自転車でいくんですよ。3時間もかかったでしょうかね。大分に兄きがいたんで、合流するんですけれど」(2012年藤波)

 「北沢さんもびっくりしたでしょうけど(笑) あのとき、北沢さんは、僕の目が真剣だったので、まずは話を聞こうとしてくれたそうです。ありがたかったです」(2012年藤波)
          
 ・6月   松本自動車を退社する。
         

6月16日  ・6月16日  日本プロレス「下関体育館大会」を観戦。 いよいよ日本プロレスに入門へ

 「会場に入ったら、超満員でしょう? わああっという雰囲気で、試合のことは、もう覚えてないです」(藤波2012年)
    
  この日藤波は、下関大会を観戦後、父、兄とともに(北沢さんも同乗して)車で選手の宿舎である旅館へ行った。到着してまもなく、父と兄とは別れ、ひとり、北沢さんの部屋に案内されて、「待っているように」言われた。
  その後、選手達には「熱心なファンです」と紹介されて同行したが、当時、猪木だけには、猪木の付け人だった北沢から「藤波はプロレスラーになりたいそうです」と紹介され、猪木も「そうか、がんばれよ」と声をかけてくれた。※2010年の藤波著「藤波辰爾自伝・未完のレジェンド」による記述。
  「いまでも、下関の体育館に行くと、あのときのことを思い出します」(藤波・2012年)

 ※なお、ここでは、1979年以降の、多くの書籍やインタビュー記事に基づき、当時の雰囲気をこわさぬように(?)しつつ、いくつか採録しています。     

 このころ、日本プロレスの営業部に井上晴夫という人がいて、藤波が入門を頼みに来るたびに断っていたという。関係者の間では、その井上氏が「藤波坊やの担当」と呼ばれており、藤波の真摯な態度から、実際に巡業につれてゆき、「藤波自身に体力的な限界を感じさせて、あきらめさせる」つもりであったという。このことについては、週刊ファイトの井上編集長が「喫茶店トーク」の中で言及して、
  「ハルさんが、藤波坊やの担当だったですよ、これが。あんまり何回も訪ねてくるので、まあ適当に見学させて、それで帰そうとしてたわけですよ(笑)」と嬉しそうに話していた。(1997年ごろ。サムライチャンネル)

なお、藤波がチャンピオンになって凱旋帰国をし、ドラゴンブームを起こした1978年ごろの著作にはもっと簡潔に、しかも劇的に書かれていて、その「伝説」が「定説」になってしまっているものもあるので、紹介します。
 いわく・当時の著作より  「藤波は、まず、日本プロレスの「早川大会」(未詳)を観戦し、次に、下関大会に行った。そしてこの日も、観戦中に猪木のファイトに夢中になり、観戦後、選手の宿舎に北沢選手を訪ねてゆく。猪木には「ファン」として紹介される。そのとき、猪木は「おっ!」と答えたという。その場で「入門を直訴」し、そのまま巡業について行くことになった。このときの待遇は練習生以下だった。それでも憧れの猪木さんと一緒であることで満足していた。云々。」

  ※編者注)実は、憧れの選手・目標についても、日本プロレスへの入団についても、諸説が
ある。つまり、 従来「藤波は、猪木さんの熱狂的なファンで、猪木さんにあこがれて入門した」とい
う記述が多かったが、最近では、これとは違う説も出てきた。しかも藤波本人の口から。

 ●憧れの選手・目標について

 「そりゃあ、当時は、馬場さんと猪木さんですよ。でも、馬場さんを目標にする人はいなかった。というのも、大きさが違うでしょう(笑)  「俺も明日の猪木になる」という人はいても、「明日の馬場になる」は目標としても無理だもの」(藤波)  ※そりゃあそうですけど、そういう意味ではなく、やっぱり猪木さんが目標なの?とお聞きしているんですが(笑)
        、
 当時の日本プロレスは、馬場をはじめ、大男揃いで、70キロにも満たないようで「細い」藤波は、実際、相手にされなかった。 一時的な入門を許されて、挨拶にいった時も、ほとんど意識されないほどの存在であった。若手のまとめ役的なミツ・ヒライには相手にされず。 (「ミツ・ヒライさんは、そっぽを向いたねえ」 北沢) そして、馬場は藤波を見て、ひとこと、「ずいぶん小さいねえ」

 北沢自身が若手中堅選手であったため、部屋は数人で寝泊りし、藤波ひとりが増えたことで先輩に不自由をさせないよう、藤波は 「できるだけ、自分の存在を消していた」(!)という。そうした気づかいから食欲不振となり、もともと軽かった体重がさらに減少し、北沢を心配させたという。

  このころは、北沢のほかに永源や林が同室で、藤波は、先輩からは「藤波」とは呼ばれず、「坊や、坊や」と呼ばれて、もくもくと雑用係りをこなした。

  藤波「実は、俺、車酔いするたちだった。でも、巡業に出ると、車酔いは一度もしなかった。それよりも、(巡業に)緊張して、こんどは飯が喉を通らなくなった」

  藤波は正式な練習生ではなかったので、巡業先でもリングが使えず、旅館の大広間などで受身の練習をやり、旅館の人から怒られることも。



  当時のエピソードより ●あれ?お前、誰?

 藤波「自分では、もう入門したつもりでしたけど、実は、北沢さんの預かりみたいな身分でした。最初は、下関で試合があった。それで入場料三千円払って入りまして(笑)、同郷の北沢さんを通して猪木 さんに会ってお願いしたんです。ボクは了解されたと思っていたんですが猪木さんはその時の事、覚えていなくて、しばらく経って「アレ、お前は誰?」(笑) ボクは猪木さんの付け人になったつもりでいましたから、猪木さんの洗濯物なんかを片づけていたんです。」(1979年インタビュー)

 格闘技の経験もなく、みようみまねで受け身の練習をして、両肘、両膝、お尻やおでこを擦りむいて、包帯をしていたこともあったという。

 北沢「おまえ、試合もしてないのに、なんで怪我してんの?」
 藤波「実は、受身の練習もしなきゃいけないと思って、大広間でしてました」

 もちろん、先輩達のいわゆる「かわいがり」(酒の強要後、受身の練習など)も あった。
7月以降 7月上旬

 九州巡業から帰って東京で、芳の里ゲタ社長から「しぶしぶ」入門を認められ、それまでの「練習生以下」の身分から、少しだけ出世(?)した。

 東京では三軒茶屋(世田谷区)にあった永源選手のアパートに居候。二部屋のうち、一部屋が永源で、もうひと部屋に4人が寝泊まりしたという。
 藤波「永源さんが(当時は、こわかったですよ・笑)、夜帰ってくるまで、待っていました。帰宅してから、いろいろな用事をして、深夜に寝て、すぐ朝が来ることもありました。まあ、若かったから、あれでもやれたんでしょうね」

 アパートの大家さんが八百屋さんだったので、その手伝いもした。他の選手のように遊びに行かない(行けない?)藤波には、その「手伝い」が絶好の息抜きになったという。

 当時は、試合場に行っても「スクワットをしておけ」などと前近代的なトレーニングをさせられていた。

 このころの藤波の述懐として「トレーニングなどは、なんとかついて行けた。でも、夕食後などかわいがられて(酒を強要)ねえ。用事を済ませてから行くと、さっそく飲まされて、受け身もとらされ、これはつらかった。当時はそういうもんだと思ってましたけど」(※当時は「パワハラ」なんて言葉もなかった)

             

          
 このころは月給が2万3千円であったという。

7月30日には、NWA世界チャンピオンのドリー・ファンク・ジュニアが再来日して、馬場が挑戦。52分もの熱戦の後、両者リングアウトで引き分けた。ドリーに「何千試合も闘ってきた中で、一番タフな試合だった」といわしめた試合で、やはり馬場が世界のトップの実力を持っている証明となった。しかし、8月2日には福岡で猪木が挑戦し、こちらも実力伯仲、1−1から時間切れ引き分けとなった。2本目にドリーに決めた原爆固めは世界チャンピオンから完全フォールを奪ったという、実力の証明となった。


 なお、藤波が猪木の付け人になったという件については、藤波著「未完のレジェンド」には「付け人の北沢さんの関係で自然に、猪木さんのかばん持ちになり、きがつけば、自分が猪木さんの付け人に指名されていた」とある。

 また、2010年の雑誌「猪木闘魂50年」の藤波インタビューでは
  「最初から、猪木さんの付け人として北沢さんの下で行動した。入門イコール猪木さんの付け人からスタート」とある。 さらには「力道山と同じように、馬場さんはものすごく印象深く、猪木さんは、テレビでは見ていたが、実際に猪木さんを意識しだしたのは、北沢さんに会ってからかな」という新たな発言も。

 日本プロレスの先輩たちも、自然とグループが出来ていて、猪木のまわりには練習好きの、小鉄・木戸・北沢らが集まり、猪木に私淑していた藤波も当然、そのグループに属していた。

 当時、メインエベンターとは、気安く口をきくような雰囲気ではなく、また技も「見て盗む」といった時代。そんな中、大坪飛車角(清隆)コーチから丁寧に指導を受けた。「このコーチは、本当にありがたかった」
     
 ● 新弟子時代、辛かった事は?
   藤波 「練習のきびしさは当然ですし、苦ではなかった。やはり先輩の付け人としての仕事が大変でした。洗濯などいろいろあって、午前3時頃寝て朝6時に出発という巡業の日がよくあって大変だった。いまにして思えばなつかしいね。そういう経験は貴重ですし、ある程度は必要だと思いますね。」(1979年インタビュー)
 「猪木さんの頭を洗って、時には馬場さんの頭もあらったから、二人の頭の形は、この指がしっかり覚えてますよ」(2010年雑誌記事)
        

 ●藤波 「ハイ。でも、プロレスが好きですから・・・」
   (日プロの練習生として雑用に追われる中、記者から声をかけられて)
  
●昭和46年(1971年)  17歳  いよいよデビュー戦を迎える。年末に大事件が・・・
昭和46年(1971年)  17歳


        
              馬場、猪木、両巨頭と、藤波

 ・ 2月19日に、「悪魔仮面」ミル・マスカラスが初来日、星野と対戦する。このときのセコンドを藤波が努めた。(「ダイナミック・ビッグシリーズ」後楽園ホール) マスカラスは、当時、「ゴング」誌上で特集をされ、まだ見ぬ強豪の一人だった。来日緒戦から鮮やかなメキシコ殺法を見せてくれ「プロレス新時代」を予感させた。星野の対応ぶりも見事であった。このときの藤波は、新弟子として、靴を履くことも許されず、ゴム草履でセコンドについていた。このころのことを、マスカラスは憶えていて、後のインタビューで「当時は、まだ、こどもだったな」(マスカラス)と答えている。

 ・ 3月26日  ロサンゼルスで、猪木がジョン・トロスに勝ち「UN選手権」を奪取。「若獅子・アントニオ猪木がめきめきと頭角をあらわしてきた。

 このころ、藤波は、国際プロレスを見に行き、ラッシャー木村の金網デスマッチも観戦したという。
   
 ●馬場と猪木が一緒にいた日本プロレス時代の思い出(藤波・2014年インタビュー)

 「入門後、猪木さんの付け人をやっておられた北沢さんから引き継ぎ、僕がやらせていただくことになった。一方、馬場さんの付け人は僕より半年ほど先に入門していた佐藤昭雄さんでした。入門がほぼ同じで、心を許せる唯一の先輩でしたから、佐藤さんとは二人でいろいろやったなあ(笑)。

 当時、馬場さんと猪木さんは、だいたい同じ控室でした。試合が始まると、馬場さんも猪木さんも控室からいなくなる瞬間があるんです。そんなとき、馬場さんと猪木さんが入場の際に着るガウンに、二人でこっそり袖を通したりしてね。

 そうそう、馬場さんのインター(NWAインターナショナルヘビー級王座)と、猪木さんのUN(ヘビー級王座)のベルトを、それぞれ交換して巻いたこともありました(笑)。あの頃、今と違ってベルトは本当に特別で、触ることすら憚られるものでしたから、腰に巻けただけで有頂天でしたね」

当時のパンフレットより

5月9日
・ 5月 9日 藤波デビュー戦岐阜市民センターで北沢と対戦

  

岐阜市民センター 対新海(北沢)戦

岐阜市民センター大会。第一試合15分一本勝負で先輩の新海選手と対戦。7分52秒首固めで敗れる。デビュー戦の相手・リングネーム「新海」は、入門を直訴した北沢選手だった。試合に出場することを告げられたのは試合の当日だというが、その数日前から「そろそろ試合を組むから」といわれてはいたという。
  藤波「試合がいついつだぞ、というのは言われないんですけど、おまえシューズはもっているのか?とか、なんとなくおしえてくれるんですよ。まとめ役は、中堅以上は吉村さんでしたけど、若手はミツ・ヒライさんでした」

 試合そのものの感想は、          
   藤波「頭が真っ白になってね。試合後に北沢さんから『痛かったか?』と声を掛けられた気がする。でもその次には『早く着替えてセコンドに行け』と怒られた」 また「北沢さんが、普段以上に大きく見えて、5分過ぎからは立っているのもつらいほどスタミナがなくなった」とも。

   藤波「試合のことはほとんど覚えていません。ただ、やたら苦しくて、試合時間がものすごく長く感じた。北沢さんとはいつも練習していたんですが、試合になると、一発一発が強烈で、練習の時とは全然違うんです。試合になると違うパワーが出ることを思い知らされました」(2014年)
       
 入門からデビュー戦まで時間がかかったが、これは、藤波が格闘技の経験がなく、また身体を大きくするのに時間がかかったことによるという。(また、猪木の「プロとして、恥ずかしくないようになってからデビューさせる」という方針もあったという。)

 当時は、デビューする新人に、先輩がレスリングシューズをプレゼントしてくれるという風習があったが、藤波には、対戦相手で先輩の北沢からプレゼントされた。また、当日は、試合用のタイツも北沢から借りて臨んだという。 
                                    
  藤波「靴のサイズは27、5センチです。はじめてリングシューズを作ったときは、うれしくて枕元に置いて寝ました」    (※まさに、青年藤波の旅立ちですね)

第13回ワールドリーグ戦  5月9日 
 岐阜・岐阜市民センター
 ▼15分一本勝負
  ○新海(7分52秒・首固め)藤波× 
    ※藤波のデビュー戦

5月13日
5月17日
5月13日 この日、広島大会でセコンドにつく若き藤波の姿が画像で残されている。馬場が16文キックをマウンテン・マイクに決めている場面で。 
また、5月17日は、姫路で猪木がコックスにコブラツイストを決めている場面。いずれも、セコンドとしての藤波であるが、猪木の攻撃の場面では思わず力が入って、「にぎりこぶし」を作っている姿がほほえましい。
(エピソードページにリンク)
・5月
 6月

 ・ 5月19日  日本プロレス・第13回ワールドリーグ戦(大阪府立)で猪木はデストロイヤーと引き分け。ブッチャーに勝って優勝した馬場に対し、猪木が挑戦をぶちあげる。この記者会見のため、記者を集めたのが藤波だった。 (翌20日にも、猪木が正式に馬場への挑戦を直訴する。これは当時のプロレス界ではきわめて異例の事態で、すぐには結論が出ず、ようやく28日、「二人の対戦は時期尚早」であると裁定が下った) この当時、猪木の一連の行動には「秩序を乱す」という観点から批判的な声が多かった。

  このころは「食わないと大きくなれない」という時代で、食の細い藤波には「食事時間が恐怖であった」という。また、食べないと、こんどは先輩からの竹刀がとんだ。

  藤波は、このころに「先輩に銀座のクラブに連れて行ってもらったが、緊張して話もできなかった」という貴重な(?)体験をした。


 ・ 6月17日  藤波は、仙台でのバトルロイヤルで安達を破り優勝

 ・ 6月23日  藤波、デビュー2戦め。佐渡で、佐藤に敗れる。デビュー1戦めから 2月近く空いている。なお、このころは、一試合につき8千円もらえたという。

 ・ 6月30日  三重県体育館で、シンガポールからの留学生ドナルドタケシと対戦。はじめて10分以上試合をするも、敗れた。

ゴールデンシリーズ  6月23日  
新潟・佐和田町体育館
 ▼15分一本勝負
  ○佐藤(8分46秒・エビ固め)藤波× 

◆6月30日 三重・三重県体育館
 ▼15分一本勝負
  ○ドナルド・タケシ(10分58秒・体固め)藤波× 
・7月
 8月以降

スパーリング風景
先輩に腕を決められて顔をしかめる藤波。先輩は、若手のまとめ役の「東洋の小悪魔」ミツ・ヒライ(平井光明)(ちなみに、のちの全日本プロレスの「スーパー・ヘイト」のお父さん)です



 ・ 7月 6日  敦賀で、百田光雄と対戦。力道山の息子と11分余り闘うが、敗れる。

 ・ 7月24日  高崎で木戸修と対戦。のちに一緒にヨーロッパへ遠征する先輩に9分弱で敗れる。

 ・ 8月 1日  福岡のバトルロイヤルで、轡田を破り優勝。

 ・ 8月 2日  日田市で佐藤に敗れる。以後、12月2日まで、5試合が組まれるが、いずれも10分ほどで敗れる。(右欄のリンク参照)

 試合にはなかなか登場できないものの黙々と「付け人」としての仕事や雑用をこなした。ときどきバトルロイヤルには出場して、リングにあがる感触を確かめる日々が続いた。
データ
「藤波の日本プロレス時代の14戦」戦績


◆7月6日 福井・敦賀市体育館
 ▼15分一本勝負
  ○百田(11分28秒・体固め)藤波×

サマー・ビッグシリーズ  7月24日 
  群馬・前橋スポーツセンター
 ▼15分一本勝負
  ○木戸(8分55秒・体固め)藤波× 

◆8月2日  大分・日田市大原グラウンド
 ▼15分一本勝負
  ○佐藤(8分20秒・体固め)藤波×
12月4日  ・12月 4日  仙台で、猪木のUN選手権にマードックが挑戦。
 この試合にも藤波がセコンドにつき、勝利の猪木にトロフィーを持ってくる貴重な若き藤波の姿が映像に残っている。(2004年発売のDVD「猪木全集」)のこと、下記コラム参照           

・猪木のセコンドには小鹿、星野、山本、坂口、タケシ、そして、藤波、小沢ら若手も青いトレーナーでクッキリと映し出される。猪木は、マードックのブレーンバスターで、1本目を取られるも、2本目以降の猪木は強い。
 それまで「テクニシャン・猪木」として選手権試合も苦戦気味だったが、この試合では、「弓をひくストレート」を見せて、後の猪木・マードック戦のような「強い猪木」を彷彿とさせる。
  試合終了と同時に星野・山本が祝福にリング・イン。(もちろん山本小鉄の頭も若い) NETの大きなトロフィーを持って来るのが藤波。いわゆる猪木派の選手に囲まれて(小鹿をのぞく)のびのび闘う猪木の姿。そして、日本プロレス時代の藤波の姿を見ることが出来る貴重な映像である。  
    
12月7日  ・12月 7日  札幌で、猪木の日本プロレスでの最後の試合。
 「BI砲」と呼ばれた史上最強のコンビでインタータッグ選手権の防衛戦。それまで何といっても7割以上の勝率を誇る日本最強のタッグだった。だが、この日、猪木は馬場と組むも、ドリーとテリーのファンク兄弟に敗れてしまう。つまり、タイトル喪失。当時の言葉でいうと「海外流失」か。
 これが、猪木の日本プロレスでの最後の試合となった。当然、馬場とのタッグも最後となる。(後の「オールスター戦」でのタッグは例外)

 この日も、藤波は、猪木を取り囲んだファンを、必死にひとりで整理していたという。

※この日の馬場には大勢のセコンドが付き、「猪木が何かをたくらんでいるのでは?」と、馬場の身の安全を守ったという。大変、不穏な雰囲気の中の興行であった。事実、セコンドの藤波は「なんとしてでも、猪木さんを守らねば、と思いました」と述懐している。

藤波「向こうは10人近くいたんじゃないかな。馬場さん陣営は、猪木さんが試合中に何か仕掛けるんじゃないかと思って、対戦相手のドリーやテリーより警戒していました」(2015年藤波)
12月9日  ・12月 9日  この日、藤波は佐藤昭夫と対戦し、10分55秒逆エビ固めで敗れる。
 会場の大阪府立体育会館の入り口で「猪木欠場」の貼り紙を淋しそうに見つめる藤波の姿があった。
       ●リンク このときのようすはこちら(新しいウインドウがひらきます)

 藤波「吉村さんからは、猪木はいなくなったけど、おまえは何も心配しなくていいんだぞ。居ていいんだぞ。といわれました。でも、僕の心は決まっていました」(2014年・アスキー新書「名勝負数え唄・長州・藤波」)
 


◆12月9日 大阪・大阪府立体育会館
 ▼15分一本勝負
   ○佐藤(10分55秒・逆エビ固め)藤波×


12月12日  ・12月12日  藤波の、日本プロレスでの最後の試合(東京体育館・10分13秒、逆さ押さえ込みで佐藤に敗れた)
        この年5月のデビューから12月まで、全14戦14敗で終わる。        

    データ
「藤波の日本プロレス時代の14戦」戦績

◆12月12日 東京・東京体育館
 ▼15分一本勝負
   ○佐藤(10分13秒・逆さ押さえ込み)藤波

12月13日  ・12月13日 アントニオ猪木が「会社乗っ取りを企てた」という理由で「日本プロレス」から追放される



          
                       幹部の「猪木除名」の発表を聞く選手たち


  猪木を追放した日本プロレスの面々は、代官山の事務所で追放の祝杯をあげた。その中で木戸と藤波が浮かぬ顔をしていた。その模様がスポーツ新聞に報道され、その写真を見た猪木は、木戸・藤波を自らの陣営に呼んでやろうと決意したという話もある。

 ※この事件は、経理的な面で改革を目指した猪木や馬場、上田たちの結束が途中で乱れて、猪木が詰め腹をきらされたものとも言われている。上田の著書によると、改革をめざしていたのは本当で、吉村も「馬場と猪木が、このごろ仲がいいな」と漏らしていたとある。そして、巷間、上田が裏切った(怖くなってご注進)という話があるが、上田自身はこれをきっぱりと否定している。(上田馬之助著「金狼の遺言」(2012年)他)

 ※「71年、会社の経営に疑惑を持った馬場と猪木が、会社の不正をとがめようと、手を握った。上田はじめ18選手も「決算書の内容が不明瞭」「力を合わせて会社刷新に努力しよう」と賛同したが、猪木の過激な方法に、これに嫌気がさした馬場が手を引き、大半の選手も翻意。選手会から猪木除名の決議書が提出され、代官山の事務所での「日本プロレス興業の乗っ取りを画策した」と猪木除名という発表となった。(2018年夕刊紙記事より)
   
  藤波「猪木さんたちの会社の改革は本当でしょうけど、誤解されるような動きもあったんだと思います」(2012年・インタビュー)
12月14日  ・12月14日  この日藤波は、木戸とともに、スーツケース4つを持って、夜逃げをして、猪木の事務所に駆け込んだ。

  この「猪木除名」の翌日14日に、猪木は京王プラザホテルで記者会見した。「乗っ取りとかは、まったくの濡れ衣だ」と反論し、実際に「経理面の不正な点」を列挙した。デイリースポーツ紙は、こののち、この事件を取材・連載した。それによると、年間売り上げが11億円あった日本プロレスが、11月30日時点で当座預金も現金もなく、12月3日に山形遠征に赴く交通費もないといった放漫経営の実態があったという。(2018年夕刊紙の記事による)

 (後の藤波の述懐)(「馬場と猪木」第9巻」による)
 「選手会で猪木さんが会社乗っ取りをはかった。除名だ追放だという意見が多く、僕みたいな新人が口を挟む余地はなかった。大勢に押されて、署名捺印したが、心がとがめて13日は眠れず、木戸さんと相談して、合宿所を夜逃げ、そのまま猪木さんのマンションに駆け込みました。」

 (別の機会の藤波の話)
 「このとき、どうやって、4つも大きなスーツケースを持っていけたのかが、自分でも謎なんです(笑)」

 (「猪木闘魂50周年」インタビュー(2010年)によると)
 「「あのときは若手だったから・・・」って曖昧にごまかしてきたけど、16か17歳でしょ。わかってましたよ。(中略)馬場さんと猪木さんは常に控え室で話してましたし、シャワー室で背中を流してるときもよく話してました。要するに日本プロレスの改善だよね。 (中略)で、猪木さんが出て行くんだったら、自然に僕も出て行くんだなって。」と踏み込んだ発言もしている。

 (そして「未完のレジェンド」2010年)
 「猪木さんの姿を見ていると、何も不安も心配もなかった。「この人についていけば何も心配はないんだ」「「必ず何かができるんだ」と自然に思わせてくれるエネルギーが猪木さんには満ちていた。」
と、ここでは、見解を纏めた感じである。
           
 除名になった猪木は、当時としては、大変困難な道を歩み始める。すなわち、新団体の設立。そして、そこに藤波が参加した。
12月25日 ・12月25日  猪木が「馬場さんは俺の挑戦を受けるべき。なんなら日本プロレスに乗り込んでもいい。馬場なんか3分、坂口なら片手で3分」と怪気炎を上げ、大きく取り上げられる。こういう猪木流のパフォーマンスに猪木ファンは喝采するのだが、実は、フロントでは馬場にも連絡をつけて謝罪をしていたそうだ。 

資料●「1971年版、プロレス年鑑」に掲載された藤波

 昭和46年(1971年)の「プロレス年鑑」に紹介された藤波 
  「まだタマゴだが、将来の夢は大きく広がる」」


あれ?デビューの日付が違っている。
昭和46年5月9日がデビュー戦だが
昭和45年10月とある。
バトルロイヤルでも出場した?のでしょうか?
それとも、単なるミス??

「プロレス年鑑1971」
東京スポーツ新聞社刊
1971.5.10


 
 次は、いよいよ「新日本プロレス」の設立です。まさに藤波さんの若手・青春時代  ●つぎにゆく


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cacao86gondru  最終改訂 2019.1.30