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ドラゴン大語録

2007.7.7 更新


ドラゴン藤波は、けして声高にアピールしない。けして相手を傷つけない。それは優しさから来る。相手の立場を尊重するからだ。けして、大きな事を言わない。いつも自分の立場を守っている。それで、いつも損ばかりしている。でも、それは、攻撃するより数倍むずかしい。受けとめてやる包容力と実力と自信のなせる技なのだ。


2013年

■「こんなに早くストーブのお世話になるとはね」
  (10月27日。長野県栄村中学校にて、グレート☆無茶の地震からの復興イベントに天龍とともに参加して、控室の寒い教室で)

2007年

■「ドラゴン、ロケットーー」(笑)
  (7月 1日。新潟大会のグッズ売り場。記念撮影をした4歳の男の子を、水平にして、テーブル越しに、親に返しながら)

「一連の、嵐君の参戦問題を、興行の宣伝にしようなんという気持ちは、さらさらない」  
  (6月17日。ブログ上で、嵐の参戦問題に関して)

■「ららら、らんららららん、みどりの季節」♪
  (5月26日。ドラゴン35周年&3500試合記念パーティで、歌手の山口いづみさんと緊張のデュエットで)

■「うーん、甘い!」 
  (5月14日・岐阜県郡上市。生中継の番組で、おいしい水をいただいて)

■「これから徐々に必見の「ドラゴン流」熱き!メッセージをお伝えしていきたいと思います。お楽しみに!」
 (4月19日。自らのブログを立ち上げて)

■「近所の者が見ていて、『また、藤波の馬鹿が渡っているぞ(笑)』って。」
  (4月15日放送、NHKテレビ番組「食彩浪漫」で、上田アナとふるさとを訪ねて、中学時代の思い出話から近所の川の堤を渡ったこと)

■「ジュニアのベルトを取ったときの感激をいち早く伝えてくれた感激は忘れない」
  (3月14日。休刊する「週刊ゴング」誌にむけてのメッセージ)

■「ふうん、バニラみたいですね」
  (3月14日。テレビ生中継。金沢の武家屋敷で、秘伝のお香をたいてもらっての感想)


2006年

■「コミュニケーション不足の現代っ子にはもってこい。来年は、無我の会場でも教えたい」
  (12月16日。NHK教育テレビの「親と子のTVスクール」に出演して)

■「こんなに盛り上がってるんなら、ここで試合をすればよかった」
  (11月25日。法政大学の学園祭で、学生プロレスのリングに乱入して)

■「好きなんだねぇ、プロレスが(笑) 歳のことは言いたくないけど、まだ52と言いたい。いい顔してるでしょう。やはり、リングはいいね。ネコちゃんも応援してくれた」」
  (8月2日。「無我ワールド・プロレスリング」の旗揚げに際して)

■「猪木さんを筆頭にわずか6人で新日本プロレス旗揚げしてから34年。1番いい時代に、いろんな最高の感動をもらった。今は感謝の気持ちでいっぱい。すがすがしい気持ちで新日本を後にしたい」
  (7月7日。記者会見にて)

■「慰留の話はなかったし、二度とココに来る事はない。寂しさも別にないし、やる事はやって来たつもり。僕は僕で非常に爽やかですよ!」(6月30日、最後の出社を終えて)

■「会社を救ってくれたユークスさんには感謝している。「プロレスには今まで以上の熱い思いがあり、まだやめるつもりはない」(4月21日、新日本プロレスに辞意を表明)

■「強面の人たちが喫茶店に来るシーンでは、自分がプロレスラーであることも忘れて、少しひいてしまいました(笑)」(4月1日。「映画・トワイライトファイル2」への出演について)

■「こどもをリングの上のマットにあげて、でんぐり返しをさせるとか(笑)」
  (3月初旬。横浜Fマリノスの左伴社長との対談で、小さなファンの獲得について)

■「彼をメキシコから連れてきたようなもの。仲人もやった」
  (1月28日。ブラックキャット選手の告別式にて)


2005年

■「彼の復帰戦の相手をしてあげたかった。太く短くの生き方もいいが、限度があるだろ」
  (7月15日。橋本選手の通夜で)

■「こんなの、サッカーファンに怒られちゃうよ」
  (6月初旬。サッカーのデルピエロに飛龍裸絞めを決めて)

■「最初は緊張したけど、余裕を持って楽しもうと思った。背中にすごい視線を感じていたよ」
  (5月14日。東京ドーム大会で、三沢とタッグを組んで)

■「こんな空席でリングにあがったことはない」
   (4月24日。大阪大会で新人の中嶋とシングル対決をしたあとで)

■「どうにか西村についていきました。15分はやってみると長かった。これからは35年間のレスラー人生の集大成としたい。今日はありがとうございました。西村、ありがとう」
   (3月26日。両国の第一試合で復帰戦を行って)

■「対戦のかなわなかったジャンボ鶴田のにおいのする三沢と対戦したい」
   (3月1日。復帰戦の相手としての希望を記者会見でぶちまける)

■「もう1度レスラーとして花を咲かせたい。実戦の方はもう少し待ってください。3月くらいには」            (1月下旬。復帰に向けてのインタビューで)


2004年

■「いま、ロープワークをしたら、身体にミミズ腫れができるね(笑)」
  (11月27日。復帰に向けてのロードワークと練習の後で)

■「遠慮も変なプライドもいらない。戻ってくるなら、いくらでも骨を折ってあげられる」
  (11月27日。スポーツ紙上で橋本に呼びかける)

■「あえて、何も言いません!」
  (11月3日。両国での、蝶野の20周年記念イベント大会でゲスト解説。メインのタッグに長州が参戦したことについて問われて)

■「ある部分、その場その瞬間で、反応して試合をしなさい」
  (8月7日。ドラゴンキャンプで、棚橋を鍛えながらアドバイス)

■「すごく嬉しかったですよ。猪木さんは、いざとなれば、僕のことを考えてくれているんだと」
  (1月16日。記者会見で。改めて、猪木とのエキシビションマッチについて聞かれて)

■「胆石が多すぎて、胆嚢ごと摘出されてしまった。ストレスから解放された感じです」
  (1月9日。手術を終え、明るい表情で)



2003年

■「猪木さんの本気の蹴りがうれしかった」
 (12月31日。イノキボンバイエ神戸大会で、猪木とのエキシビションマッチを終えて)

■「試合が出来ない自分自身を「リストラ第1号」にする」
 (12月10日。正月のドーム大会についての記者会見で、突如発表)

■「けじめをつけるが、引退するとは言っていない。僕からプロレスを取ったら、なにも残りません」
 (11月10日。ネット上の「藤波宣言」で)

■「1月4日で現役を引退し、気持ちに区切りをつけたいと思います」
 (11月6日。引退宣言。猪木のいるパラオから帰国して、記者会見で)

■「金網は、やっぱり、抵抗があります。なぜ、新日本のマットに金網なのか・・・」
 (8月28日。大阪大会のリングで金網デスマッチが組まれたことについて)

■「ほら、お父さんの20年前のサインだよ」
 (4月20日。中野のスタバで、20年来のファンが自分の名前を入れてくれと差し出したサイン色紙を長男に見せながら嬉しそうに)

■「馬場さんがこれを大好きでねえ。大福を見ると、ジャイアント馬場さんを思い出す」
 (1月31日放映のテレビ番組の中で、しみじみと)

■「情けなくて言葉もない。自分と試合をしている過去を大切にしてほしかった。その試合を見てくれたファンもけなすことになる」
 (1月16日。ひったくりで逮捕された剛龍馬の事件に関して)

■「聞くだけヤボ。聞く必要もない」
 (1月16日。前日の越中に続いて、若手の鈴木が退団したことについて」


2002年

■「船が四角くて、ロープが張ってあれば勝てた」
 (11月9日。テレビ番組で、海釣りに挑戦して、船酔いで女子アナに敗れて)


■「あったあった、こんなこと(笑)」
 (11月8日。カードマガジンの担当者から、「ファンの方のサイトですごく詳しいのがあるんですよ」と
  差し出された資料を見て、目を丸くして) ※注、この資料とは「ドラゴン大年表」のこと

■「誰か、ああいう知恵をつけた者がある。腹立たしいし、うちの選手もおとなしすぎるな」
 (8月1日。猪木がNWFベルトを持ち出したことに関して)

■「暑かった!地獄ーっ!(笑)」
 (7月31日。道場で棚橋と公開練習をして)

■「お前、バカヤロー!どういうつもりなんだ」
 (7月4日。タッグを組んだが、裏切られ、試合後、蝶野に対して)

■「僕は、パイナップルが大好きです」
 (7月1日。「夏バテ防止法」がテーマのテレビ番組に出演して)

■「オレは絶対に譲らない。だったら越中にでも代わってもらいなさい」
 (6月26日。G1出場権を要求してきた安田に対して)

■「今回が最後のG1(笑)って、言い続けているからなあ(笑) 俺宛のメールでも、いいかげんにしろ!っていうのばっかり。いいんだよ。オオカミ少年だから(笑)」
 (6月21日。藤波宣言で、G1出場について)

■「僕は長州とは立場が違う。批判をしていったことは残念だ」
  (6月1日。猪木批判をして退社した長州に対して)

■「他団体の選手も含めて、良い試合、良い大会だった。蝶野、そして、スタッフを含めて、全員にMVPをあげたい」(02年5月3日。5月2日の記念大会全体の総括)
■「言うのは簡単! 実際に動かすのが大変なんだ」(02年5月3日。猪木の一連の発言について)
■ 「彼はいいよね、自分のことだけで生きてゆけるんだから! 僕はプロレス界全体を見て動いていくんだから・・・」(02年5月3日。長州について、語気を強めて)

■「言葉もない。カール・ゴッチとは違った意味でプロレスを愛している人だった。ぼくも小学校のころからあこがれていて、いま振り返ると、歴史の重みと流れを感じさせる人物でした
 (02年4月29日。ルー・テーズの死去に触れて)

■「退団者が出て、故障者も続出している。ここで引退するわけにはいかない
 (02年3月21日。引退宣言撤回)

■「いつ何時でも、リングにあがる用意はしておきたい」
 (02年3月5日。5月の記念大会に向けて)

■「社長業と選手との二足のわらじは難しい。もうカウントダウンはしません。引退したら2度と復帰もしません」
 (02年2月16日。引退宣言)

■「もうすこし常識を持って報道して欲しい」
 (02年2月。連日のスポーツ紙の報道に関して)

■「ピンチの時が、最大のチャンスである。と小泉首相も言ってますよ。チャンスです」
 (02年1月23日。武藤らの新日本離脱について)


2001年

■「僕以上に、新日本プロレスを守る義務があるんじゃないの? 僕のプライドとかは、もう何年も前から、ズタズタですよ。馬場さんが良識を重んじたのは、あたりまえですよ。」
 (01年10月−11月。猪木に対して)

■「西村、ベルトよく似合うよ(笑)」
 (01年10月15日。別府で、西村と組み、武藤・ライガー組の挑戦を退けて)

■「誰が、この試合を想像しましたか!新日本のマットで
 (01年10月8日。東京ドーム大会。藤波・バックランド組vsファンクスの試合後)

■「20年越しの十番勝負は、これでよかったんじゃないかな」
 (01年10月7日。後楽園の「無我」大会で、バックランドとエキシビションで闘かって)

■「俺が、足を引っぱらないようにと。まだまだ引退なんて、してられない。猪木、見てろよ!
 (01年9月23日。なみはやドームで、西村と組み、天山・小島からIWGPタッグタイトルを奪取して)

■「このままじゃ、すまさん!」
 (01年8月6日。両国で村上と対戦。ルール無視の暴挙に完全に怒り、首固めで勝利後も怒りは収まらず、控え室まで追いかけた)

■「ジャンボ鶴田の遺志を、リング上から応援していきたい」
 (01年7月24日。鶴田夫人のらと臓器移植に関する要望書を持って、厚生労働省を訪ねて)

■「カウントダウンはなくなった。次期シリーズからリングでフル回転する」
 (01年5月11日。引退宣言を撤回して)

■「我々の業界で生きていく、すべての教育がなされていない」
 (01年5月6日。小川追放を宣言し、その理由として)

■「今日はここにいて、リングにはあがりません。じっくり見させてもらいます」
 (01年4月9日。  大阪ドームの村上vsライガー戦のゲストで放送席から。だが、小川に挑発されると、放送席で小川に張り手、その後リングに上がって乱闘の収拾にあたった)

「四角いジャングルは得意だけど、本物のジャングルには弱い」(笑)
(01年3月25日放映。TBSのテレビ番組「世界ウルルン滞在記」で、6年ぶりにパプア・ニューギニアを訪ねて)
           

■「大阪は、とんでもないことになるぞ!」
 (01年3月22日。記者会見で猪木を痛烈に批判して。温厚な藤波としては前代未聞の途中退席となった。)

■「トレーニングメニューを組みダイエットをして、「無我」の復活を考えています」
 (01年2月9日。社長日記で発表)

■「無我をやるか?」
 (01年2月3日。札幌大会で、藤原と対戦。勝利した後、西村に対して)

■「われわれは殺し合いをしているわけではない。わかってください」
 (01年1月4日。東京ドームでの橋本・長州戦の、試合を止めてリング上で)        


2000年

■「一番いいたくないことを言うのはつらい」
 (00年11月13日。橋本解雇の記者会見で、うっすらと涙を浮かべながら)

■「中央フリーウエイを」
 (00年11月1日。東京国際フォーラムで行われた「松任谷由美ワンナイトコンサート」にゲストの一人として招かれ、公演途中でユーミンからリクエストを聞かれて) 

■「早い機会に、小川とやらせることが、当面の目標となると思う」
 (00年
10月 9日 東京ドームの第1試合で、復帰する橋本と壮絶な試合をした後)

■「握り返すものに、気持ちがこもっていた」
 (00年8月23日。橋本から引退撤回復帰報告をうけて、握手をしたあと)

■「ここまでくれば、自分の限界への挑戦」
 (00年8月11日。両国のG1公式戦で後藤と対戦。ゴング前のラリアートや、試合開始
  直後にバックドロップをみまわれるも、飛龍裸絞めで勝利して)

■「ものすごい勇気だと思います。まずは、おめでとうといいたい」
 (00年6月2日。病気をかかえながら復活した西村の第1戦の相手をつとめて)

■「ついに対戦はかないませんでしたが、引退後にプロレス談義でもしてみたかった」
 (00年5月。フィリピンで急死したジャンボ鶴田へ、哀悼のメッセージ)

■「もちろん、(橋本が)続けるのであれば、後押しはする。今日の試合は、勝ち負けを越え
  た戦いだった」
 (00年4月7日。橋本が小川に敗れ、試合後、公約通り「引退」かと騒がれて)
 
■「うちの歴史をずっと見てるから、特別に感じない(笑)」
 (00年3月。全日本の分裂騒動についてきかれて)

■「じっくり考えて契約するのはいいこと。FAもあれば、トレードもある。ある部分では、社長がトレードされたりして(笑)」
 (00年2月。新日本プロレス社長として、契約更改に携わって)


1999年

■「俺は体重100キロ。金本とも試合できるな。でも、ジュニアヘビー級にするために減量した訳じゃないから(笑)」
 (99年12月。社長の減量を聞いたジュニアヘビーの金本の挑戦要求について聞かれて)

■「これが、新しい新日本プロレスの姿勢です」
 (99年9月。「10.11東京ドーム、橋本・小川戦」を「強行発表」(橋本には伝えていない)して。 

■「大仁田は新日本には必要なし。僕には、プロレス用語は通用しません
 (99年7月。大仁田の参戦要求に対して記者会見で)

■「今後は猪木イズムを追及して、戦う社長として積極的に業務を執り行ない
  たい。プロレスコミッショナー制度を復活させたい。プロレスサミットを開催したい。
 全日本プロレスとの交流も図りたい。また、個人的には小川vs橋本戦を前向きにやらせたい」
 (99年6月24日。新日本プロレスの社長に就任して)

■「あまりにも急なことなので、思い出と言われてもすぐには出てこない」
 (99年2月。 ジャイアント馬場さんの弔問に訪れ、テレビのインタビューに答えて) 

■「まず、プロレスの基本に戻ること。それから、新日本プロレスを1軍としたら、そこにあがるための2軍が無我」
 99年1月。「無我」のコンセプトを問われて)


1998年

■「心配!(笑) 女の子のレスラー。あとで、反応を見てみたい」
(98年12月。無我のマットに、はじめて女子のレスラーがあがることに対して)

■「複雑な気持ちだった。ベルトがなくなった分、身軽になった。ここでへばるわけにはいかない。これからがスタートです。」
(98年8月8日。IWGP選手権を防衛できず、蝶野が表彰されるのを花道で見守って)

■ 「油断はしていなかったが、山崎は自分のペースに引き入れるのがうまいね。ちきしょー!」
 (98年7月31日。G1クライマックス・トーナメント1回戦で、山崎に敗れて)

■「猪木さんがリングサイドにいたら、あいつはまだこんな動きができるのかと、思っただろうね」
 (98年7月14日。天山を卍固めで下してIWGPを防衛して)

■「また、西村に何か吹き込んだんでしょ?」
 (98年6月22日。IWGPヘビー級王座初防衛記念パーティーで、西村と談笑するターザン山本に)

■「現役としての力を試してみたい」
 (98年6月。IWGP選手権で、橋本の挑戦を受ける前に)

■「イギリス勢がいないと何か物足りない。無我の若手の試合ぶりは、若さがなくなった。期待はずれだ」
 (98年5月。「無我」大阪大会について)

■「このベルトの方が愛着がある。今のベルトは、重い重い。腰に悪い(笑)」
 (98年4月9日。IWGP奪取記念の取材で、記者に古いベルトを見せながら)

■「猪木さんの引退という大事な日、無謀とも言われたタイトル挑戦は、自分に対しての大きな賭けだった。きっと、これでファンも、もう少し自分が現役としてやっていく事を許すでしょう」
 (98年4月4日。東京ドームで佐々木に勝ち、IWGPを奪取して)

■「イスを持ったりするのは本意じゃない。でも、猪木さんがいたら同じことをしてたと思う」
(98年3月14日。仙台の「nWo討伐」戦、試合後に乱入したnWo軍をイスで蹴散らしたあとで)

■「勝ちは勝ちでも、納得する勝ちじゃあない。蝶野がフォールを許したのがわからない。あんなもの返せないはずがないしね。藤波たつみ個人の気性からいって、許される結果ではない」
(98年3月6日。新潟での「nWo討伐」開幕戦のメインで蝶野にグランドコブラを決めて快勝した直後に)

■「ありがとう。会場に一歩踏み込んだのは勇気がいると思う」
(98年3月3日。「無我」恵比寿会場で、大矢の参戦アピールを受けて)
■「今日のテーマは感動です。そして、若い選手たちの目の輝きを見て欲しい」
(98年3月3日。恵比寿で「無我」の開始前の挨拶で)

■「ジャンボとの対戦は、時期尚早ということになりました。次のシリーズは「nWo討伐」に乗り出します」
 (98年2月。緊急記者会見にて。希望していた「全日本」への参戦をあきらめて)

■「今日は長州の引退一色にして一緒に戦ってきた仲間を気持ち良く送り出してやりたかった。猪木さんが引退するにしても、どうして時期をずらしてあげなかったのか。」
   (98年1月4日。長州引退の東京ドーム大会について)


1997年


■「若手のあいだは、お客さんが反応しなくても、じっくり見せるものを身につけろと、俺はいいたい」
     (97年11月。西村の凱旋試合の相手になる中西・小島を評して)


「後悔している。長年、俺を見てきたファンは、どう感じたんだろう?」
 (97年11月。平成維震軍のタッグに入り、小林邦明の道着をつけて試合に出場したのちに)

■「インターネットでファンと身近になるのはいいことだけど、身近になりすぎてしまうのはよくないから、そのあたりの距離感がむずかしいね」
(97年8月。パソコン雑誌のインタビューで「無我」ホームページや電子メールによるファンとの交流について聞かれて)

■「俺達がその気になれば、時代を逆行させちゃうよ。長州、天龍、俺の3人がその気になれば、アイツら、太刀打ちできる?」
  (97年7月。天龍・長州と組んでのnWo3人衆との対戦について聞かれ、長州の引退に対し、決起してこない若い世代を評して)

■「本気でレスリングをする気があるなら、来ればいい。ただ、持ち物検査だけはさせてもらうよ」
   (97年7月。冬木の「無我」参戦希望という報道に対して)

■「みなさんの目には、どう映りましたか? 我々はこういう基礎があって新日本プロレスの本隊に上がっているのです。ひとつひとつを頭の中に入れながら、どうぞプロレスをご観戦下さい」
  (97年7月。「無我」別府大会で、全試合終了後にリング上から客席にむかって)

「ありがとう! お疲れさま」
(97年7月。「無我」博多大会で、試合終了後会場の撤収をするボランティア一人ひとりに向かって)

■「久しぶりに、膝がすりむけるような試合をやったよ。またやろう!」
(97年7月。「無我」博多大会で、試合後、一騎打ちをしたバトラーツの石川雄規の控え室を訪ねて)

■「あんたも、好きねえ(^^;)」
(97年7月。「無我」博多大会で。これまで「無我」には無かった、パンフレットの「本日のカード」の印を手作りし、押し方をあれこれ工夫しているボランティアに向かって、嬉しそうに)

■「やるんだったら、中途半端なことはしない。本隊やnWo軍とも互角に闘えるようにする」
(97年7月。「平成維震軍」再建を野上から連日直訴され、再建のリーダーとして)


■「引退と発表したからには後には戻れない。我々の世代は、自分達の言葉に責任を持っている。もちろん、喜んで相手になる。」

(97年7月。長州力の引退宣言に関して。宣言があった翌日、動揺がおさまってからの発言)


■「苦労して、もうこりごりだって思うんだ。でも、しばらくすると、また感動を味わいたいって、思うんだよね」

           (97年3月。「無我」3・30大阪大会を終了して)

■「若いねえ。プロレスは力だけじゃないんだよ」
(97年2月。一回りも年下の中西・小島組の挑戦をはねのけ、V2を達成して)

■「ジジイだって? そういうことを言う余裕があるなら、違うところに神経使いなさい」
(97年2月。武藤・平田の強力コンビから、タッグベルトを守り、ことばで挑発して来る若い選手に)


■「ここは、俺にとって特別な地。だから、何があっても休むわけにはいかないんだ」
(97年2月。指を骨折して最悪の状態で、新日旗揚げの地・大田区体育館大会に出場して)

■「最後の悪あがきをしますよ」

      (97年1月。木村と組んで、久しぶりのIWGPタッグを奪還して)


■「なんで、こんなに人が手伝ってくれるのか、わからないんだよね」
(96年12月。「無我」東京大会を開催し、お手伝いしてくれるボランティアの人々について)

■「プロレスのリングと大違いだね。やっぱりロープが張ってないと駄目なのかな」
   (96年11月。ファッションショーでモデルとしての初体験を終えて)

■「問題外。なんでも気持ちをこめて(笑)」
   (96年11月。早稲田大学の講演会で、「愛のないSEX」について聞かれて)

■「「無我」は僕の趣味です」
(96年10月。初の「無我」東京進出、大宮、恵比寿大会を成功させて)

■「山崎は、蹴り以外の部分をみて、成長したと思いました。ぜひ、「無我」にも来て欲しい」
(96年9月。長岡のタッグで、8年ぶりに山崎と対戦をして)

■「ミッキーのファンなんですよ」
(96年8月。NHKのテレビ番組で、子どもがファンであるミッキーのネクタイをして)

■「長州! 立て!」
(96年8月。 「G1クライマックス」の決勝戦で蝶野との決勝戦中、場外に落ちた長州の頬に平手打ちで気合いを入れて)

■「「竹脇」? サスケ選手の本名なの?」
(96年7月。みちのくプロの大会名が「無我」に関連した「竹脇」だと聞かされて)

■「健悟。おまえはこのままでいいのか」

(96年7月。「新龍王伝説」最終戦での一騎打ちで木村に勝って、リング上で)


■「自分の道の「無我」でと、本隊での闘い、それに天龍たちの別団体での闘い。これらがいい形でからんで、闘いに広がりが出ればいいね」

       (96年6月。久しぶりに新日本隊での試合にシリーズ参加して)

■「北原は俺に対して頭を下げたんじゃない。レスリングに礼をしたんです」

 (96年4月。「無我」大阪大会で、試合終了後に深々と頭を下げた北原に関して)

■「越中から電話をもらって、意見が一致した。一度組んでみようと」

   (96年2月。約1年ぶりの新日本隊のリング に越中と組んであがるまえに)


■「今日は、3試合しかできませんでした! これが僕の精一杯です。今度やるときはもう1試合!」

   (95年10月。初の「無我」大阪大会を終えてリング上で、控えめな挨拶を)

■「もう一回プロレスの原点に帰る」

 (95年10月。「無我」の「静かなる旗揚げ」を前にして)


■「もう一度、自分の原点を見つめ直すため、ここに来ました」

 (95年2月。ニューヨークに来て、新崎・西村とともに)

■「猪木さんより早くなっちゃうみたいだけど・・・・」

 (94年12月。・・・・・・・・)

■「3000試合っていわれて、そうなのかなという感じだね」

 (94年11月。郡山の木戸とのシングル戦で国内3000試合を達成して)

■「彼が、俺のことをとやかく言う以前に・・・甘い!

 (94年4月。蹴りに頼りすぎている橋本に関して、IWGP王座を奪取し試合後控え室で)

■「ファンと一緒に小田急線で来ちゃったよ。電車は久しぶりだけど安いね」

 (94年2月。大雪で、スタッフが大慌ての大和大会に電車で入って)

■「1対5でやってやる」

  (93年11月。反選手会同盟に対して、新聞紙上で)

■「来てないんだから、しょうがないじゃないか。」

(93年10月。小倉の会場で、反選手会同盟のアピールに答えて。出場しないヒロ斉藤組への怒りの矛先が藤波に。この後、袋叩きにあう。)

■「ちょっと、苦しいけど、いきまぁす。1、2、3・・・」

 (93年9月。天龍をグランドコブラで丸め、リング上から大歓声のドラゴンコールに答えて)

■「俺たちの時代でリーグ戦をやろう」

(93年8月。第3回G1クライマックスで馳を破って優勝して)


■「長州! 待ってろ」
(92年8月。初の異種格闘技戦で、途中からグローブを付けて闘い、勝って)

■「あれはリングのように見えるけど、まさか〜〜、あ、リングだね〜〜。」

 (92年6月放映。テレビ番組でモンスターファクトリー近くの酒場の「地下プロレス」を訪ねて。)


■「復帰する時は、ヒゲを剃って、綺麗な顔で戻ります」

(92年5月。しばらく欠場を続けて、後楽園大会での挨拶で)

■「テレビに出演するのは、社会勉強のため。プロレスの世界だけでは、人の輪も限られてしまう」
        (91年9月。テレビドラマへの出演が多いことについて答えて)

■「やったぞー
   (91年3月。リックフレアーからピンフォール勝ちでNWA世界のベルトを奪取して)

■「どんなにプロレスが変わってきても、キックやパンチ、あるいは派手な技は試合の中のほんの一部分でしかないんだよ。最後は、レスリングの基本に帰ることじゃないかな?」
         (91年2月。テレビ番組で9年ぶりにゴッチをたずねて)

■「「東京ドームで藤波がフレアーに挑戦」のCMを、アメリカのテレビでやっているのには驚いたよ。挑戦するという、実感が沸いてきた」
              (91年2月。NWA世界選手権に挑戦する前に)

■「身体がいまひとつ動かなかった。この控え室に歩いて帰ってこれただけでも、よしとしなければ」      
           (91年1月。ベイダーとのIWGP戦で敗れて)

■「信じられない」
  (90年12月。長州を破って、IWGPチャンピオンに。矢継ぎ早に質問してくる記者に向かって)




■「ちょっと待って・・・・腰が限界に、・・・身体がぜんぜん動きませんでした」
  (89年6月。ベイダーを首固めで破って。この日から腰が悪化。長期欠場となる)


■「ありがとうございました

  (88年8月。猪木との60分フルタイム戦の後で、猪木に声をかけられて)


■「何年同じことやってるんですか!
 (88年4月。沖縄大会で、自らの前髪を切りながら、猪木に「飛龍革命」)

■「17年間プロレスをやってきて、あんな屈辱はなかった。くやしくて眠れなかった」

 (87年12月。両国大会で、突然のカード変更、物が投げ込まれる中タッグを闘って)

■「馬場さんから、君は向こうじゃないのっていわれちゃった」
(87年11月。羽田空港で、全日プロの一行とニアミス。友好を深めるうちに、間違って、全日の列に並んで)

■「こら! やるんだったら、正々堂々とやれ!」
 (87年8月。試合前から場外で殴り合う前田とマシーンに向かって)

■「いつまでたっても動かないプロレス界を、俺たちが動かしてみせる」
 (87年6月。長州の世代交代アピールに呼応してリング上で)

■「握手しようとしたら、顔を張ってきた」
 (87年4月27日。猪木vs斎藤戦のセコンドについて、倒れた斎藤を馳と介抱し、会場に来ていた長州に近寄って)

■「やめちゃいけない」
 (87年4月。ジャパンプロレスの分裂騒ぎの中、引退を決意したアニマル浜口に対して)

■「まあ、そのうち、なんとかなるんじゃないですか」
  (87年3月頃。タモリから海賊男について聞かれて。(7月発売の「藤波戦争」より))

■「一戦一戦が新しい時代につながって行きます」
            (87年1月。木村健吾との「ワンマッチ興行」で勝って)

■「武藤! なんで、もっと攻めてこないんだ!」
   (86年10月。凱旋帰国の武藤の第1戦の相手をつとめて)

■「今日は負けても、心はさわやかです。今日を基点に新しい芽が出ます」
   (86年5月。UWFの前田と一騎打ちした後で) 


「やったー!」
 (85年12月。猪木から飛龍原爆固めでフォールを奪い。木村健吾と共に)

■「昔の新日本にもどったね。このところ暗いニュースばかりだったから、これは何よりのニュースだよ」
 (85年12月。両国大会でリング上から挨拶した後、日本人控え室を訪れた前田らUWF5戦士をむかえて)


■「僕が猪木さんの足を折ったら、会社はどうなるんですか
 (85年9月。「俺の足を折れ!」と激をとばした猪木との対戦後に)

■「おまえは平田だろ。ファンは、みんな知ってるぞ」
 (85年5月。熊本大会でスーパーストロングマシンに向かって)

■「さあ〜、どうなっているんでしょうね〜?」
 (85年5月。大阪のデパート屋上でのファン感謝デーで、ファンから「プロレス・サミット」は
  どうなったのかと質問されて)(情報提供:ロケットさん)

■「あれ?サソリ固めの足を、左右まちがっちゃったよ」
 (85年2月。テレビドラマで、少年隊と共演。プロレスを教えるレスラー役で、緊張のあまり)

■「招待は感謝しますが、年内はスケジュールがいっぱいなので、お断りします」
 (84年12月。UWFの前田から一方的な「招待状」を送られて挑発に乗らず)

■「今こそプロレスサミットをやろう」
 (84年11月。サイパンで呼びかけ、翌年の長州の「俺達の時代」宣言に続く)

■「俺は100%動きません。たとえ何が起ころうと、猪木さん、新日プロと共に生きます」
 (84年9月。維新軍大量離脱後、引き抜きの噂に対して)

■「こんな会社、すぐにでもやめてやる
 (84年2月。札幌大会で長州戦を藤原の乱入でぶち壊され、雪の中で)

■「タイトルを取るとか、取られるとかより、長州との闘いは今夜が最後にしたい」
         (84年2月。長州との闘いに、決意を込めて)

■「俺も一度、悪役をやってみたい。性格的に見境無くやってしまうタイプなので
   タイガー・シン以上の迫力が出るだろうが・・・無理だろうな」
  (84年2月 長州との一騎打ちを翌日に控えて、札幌のホテルで)

■「もはやベルトうんぬんではないだろう。それを越えた憤りがある」
     (83年9月。長州との闘いが軍団抗争化して)

■「鳴り物入りで入門・デビューして猪木さんとタッグを組んでいる長州を、リングの下からうらやましく眺めていた俺に、なんで噛ませ犬なの?」
                   (82年。長州の発言に対して)

■「インタビューなんかしてる場合じゃない!
 (82年10月。長州との壮絶な試合のあと広島のリング上で。名勝負数え唄の始まり)

■「でかいねえ。気持ちがいい」
(80年4月。ニューヨーク・シェアスタジアムで、宿敵チャボ・ゲレロを下した後で観客を見ながら)


■「こういう試合はすごく勉強になります。今後もチャンスがあればドンドンやりたい」

(79年8月。夢のオールスター戦で、鶴田・マスカラスと組んで闘ったあとで)

■「ヨーロッパスタイルなんで、疲れました。でも、一回でも多く防衛して、少しでも猪木さんに近づきたいです」
(79年8月。ランカシャーレスリングのシーン・リーガンを一瞬の回転エビ固めで破り、王座を防衛して)

■「やるたびに寿命が3年縮まります(笑)」
 (78年8月。ファンの集いで、ドラゴンロケットをするのが怖くないのかと聞かれて)

■「正直言って、自信がありませんでした。でも、ベルトは僕の生命と同じです。絶対に手放しません!」
(78年7月。初の日本人挑戦者・剛を逆転の原爆固めで下した直後、試合を決めたジャーマンについて聞かれて)


■「ええ〜、どうも。・・・」

 (78年3月。対戦相手のカネックが敵前逃亡して、不満の声が高まる観客に向けて、緊張が走るリング上からの第一声。ラッシャー木村の「こんばんわ」と並ぶ第一声だと思います(みなみ))


■「今日は、日程がきつくて・・」
 (78年3月。日本でのシリーズ中にニューヨークへ飛び、タイトル防衛に成功して)

■「ネバー・ギブアップ!
 (78年3月。高崎で凱旋第1戦、カナディアンに飛龍原爆固めで勝ち、リング上から。ドラゴン旋風)

「今日は、客に呑まれちゃって・・」
 (78年1月。MSGでエストラーダを飛龍原爆で破り、WWWFジュニア・チャンピオンになって、リング上からの第一声)

■「メキシコ人のガールフレンドはいます。アメリカを旅したり、メキシコに遠征したりで、僕はまだ若いですから、国際人になったみたいで楽しいです。何もかも自分ひとりでやってきて、自信がつきました。男一匹、やってみます」

 (77年6月。メキシコ市での本拠地「ホテル・サンディエゴ」で)

「ノー、「ナイス・ファイト!」だ」

(77年。アメリカ遠征中。試合後観客から「ナイス・ショウ」と声をかけられて)


■「フロリダにいる吉田選手には、絶対に負けたくない」
 (75年12月。ドイツからアメリカへ行く前、先に遠征に出た長州を意識して)

■「いい刺激になります。稽古量が増えるから、力がつき、いいファイトができます」
 (72年12月。荒川・栗栖・藤原らの新人を迎えて) 


■「押さないでください。押さないでください」
(71年11月。札幌中島、日本プロレスでの最後の試合する猪木のまわりを取り囲んだファンを、必死にひとりで整理して)

■「えっ?北沢さんですか?」
 (71年5月。日本プロレスでデビュー戦の相手を聞かされて)

■「ハイ。でも、プロレスが好きですから・・・」
 (71年頃。日プロの練習生として雑用に追われる中、記者から声をかけられて)

■「ボク、国東郡出身の藤波辰巳といいます。プロレスラーになりたいんですけど」
 (70年6月。巡業に来ていた日本プロレスに北沢選手を訪ねて) 



■ 「こどものころ、プロレスごっこでは、いつも自分はアントニオ猪木役だった」    

■「プロレスにかかわる者がプロレスを潰してはいけない」
   
■「デートで最初に見た映画は高倉健の「野生の証明」だった」

■「プロレスは、お互いの信頼関係があるから、闘えるんです

■「一度自分の進むべき道を決めたら、突っ走ってしまう。僕は、そんな人間ですよ」

■「俺には、流血がよく似合うって、インターネットに書いてあった」

■「武藤はね、あいつが一番輝こうとしているときに、潰してしまった」

■「リングの下では、普通の人です。スーパーに買い物にいってもいいですよね」

■「いまでも、猪木さんは憧れの人です」


出典。「プロレス図書館」に紹介されている単行本、その他、雑誌、アルバム、テレビなど

●このほかに、「ドラゴン語録」に載せたらいいと思う、「名言」にお気づきの方、ぜひ教えてください。


   ラバーソウルみなみ