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 ドラゴン大年表 

  平成 7年(1995年) 自主興行「無我」を主催!

  息子・怜於南(れおな)君とリング上で。


●平成 7年(1995年)  41歳

 ・ 1月 4日  東京ドーム大会。藤波は平田と組み、蝶野・サブウと対決。猪木は
          ゴルドーと闘い、その後スティングとも闘い勝つ。


 ・ 1月21日  この日、テレビ東京の番組「海の幸、ここだけの味」が放映された。
          藤波がレポーターのひとりとして登場。魚介類を使った鍋料理を紹介した。


 ・ 1月27日  藤波が、2月シリーズからの無期限欠場と渡米プランを発表。
 ・ 2月10日  ニューヨークに渡る。WWF大会を観戦後、佐藤昭雄と会談。
          西村とも合流し、ゴッチの家を訪ねる。
          フロリダからロサンゼルスと思い出の地を回る。同地のテレビ番組で最優秀外人賞を受賞。

 ・ 2月25日  野上の結婚式で媒酌人を務めるため一時帰国。

 ・ 4月28日  北朝鮮の平壌でプロレス平和の祭典。29日のメインは猪木vsフレアー戦。藤波は参加せず。

(ここに北朝鮮大会のポスターやパンフの画像)


 ・ 6月 8日 「プロレス・ファン」誌の取材を受け、新たなる飛躍について熱っぽく語った。
          インタビュー内容は、同誌25号(8月号)の巻頭に18ページに渡って掲載された。

            藤波「越えてません。僕はまだ猪木さんのやったすべてのことを、まだやってないですから」
                  (記者に「猪木さんを越えましたか?」と聞かれて)

  ・6月     テレビ番組の「世界ウルルン滞在記」秘境編としてパプアニューギニアを訪ねた。
          体力には自信のある藤波だったが,オロファ族の住む4000m級の山岳地
          帯の村にたどり着くまでの行程は,大きな身体が酸素不足でへばってしまう
          ほど険しいものだった。  さらにようやくたどり着いたコロラ村での生活は,
          サツマイモだけで暮ら す空腹との闘いの日々。
          最後の日にもらった豚の肉に思わず涙した藤波だっ た。   


 ・ 6月23日  ベストオブザスーパージュニアシリーズ開幕。新潟大会。
          練習生だった権瓶広光さんの追悼試合。猪木も、馳も、参議院選挙に立候補
          する報告にリング上から挨拶。藤波は欠場。

 ・ 7月16日  藤波が、金沢でのイベントに出演。金本との対談や、10月の旗揚げに
          ついて語った。選挙運動中の馳も登場した。
 ・ 7月23日  参議院選挙で、比例代表区の猪木は落選。石川選挙区の馳は当選した。

 ・ 8月 9日  テレビ番組に出演、取材のためキルギス共和国へ。約1カ月。
          モンゴルの草原での生活のある夜、「無我」という名前が浮か
          んだという。

      8月〜9月にかけて、新日本とUインターの間で、いくつかのトラブルが起こる。
      新日本とUWFインターとの対抗戦へとつながってゆくが、
      藤波は別行動をとった。

 ・ 8月14日  両国G1の猪木の闘魂質問コーナーで藤波についての質問が
          出る。その答えは「迷っている時間が長すぎる。引退マッチ
          の相手をしたい」
          なお、8月11日から15日の両国のG1の優勝は武藤。

 ・ 9月13日  藤波は、大阪で、「無我」の旗揚げについての記者会見を行なった。

 ・10月 9日  東京ドームで、新日本 対 Uインターの対抗戦行われる。
          佐々木が垣原に敗れるなど波乱もあったが、長州が安生に圧倒的な強さを見せ、
          飯塚に勝った高山など存在感を見せた。なお。メインでは、武藤が高田に勝つ。
          この、山崎の処遇を元にした、新日本とUインターの抗争は、高田と長州の電撃
          電話など、演出も決まって、ファンをも巻き込んだ大ブームとなった。
          藤波は、このブームの中で別行動をとる。

 ・10月22日  藤波が、フジテレビの競馬中継「スーパー競馬」に生出演。その中で、「無我」の宣伝。
           司会の高木希世子嬢に 「藤波さんイベントがあるんですよねー」とふられて
           藤波 「はい、まだ見ぬ外国人レスラーとやります。」
           なお、競馬の方は、井崎氏の予想にのっかって、・・はずしたそうです。。


 ・10月29日  初の自主興行「無我」大阪大会を開催。
          全3試合。藤波はメインでタリー・ブランチャードに勝つ。西村、クロネコが参戦。
          またミスター高橋がレフェリーとして参加した。

          記念すべき第一試合は マロニス vs  ジェンキンス で、レフェリーは ロイ・ウッド。
          プロレスの原点に戻るという、基本に忠実なレスリングが展開された。

          ○ダレン・マロニス(10分0秒・羽根折り顔面絞め)チャイルトン・ジェンキンス×
          ○西村修(19分5秒・北斗原爆固め)シェーン・リグビー×
          ○藤波辰爾(13分5秒・飛龍裸絞め)タリー・プランチャード×

          届いたメッセージ。

           ゴッチ「旗揚げを見に行けなかった事は非常に残念だ。近いうちに藤波と会って話しをするつもりだ。」

          ベイダー「藤波がたった一人で旗揚げしたと聞き、居ても立ってもいられない気持ちだ。私は藤波を全面的に
               バックアップしたい。藤波とはリングの中でも外でも良い友達だと思っている。神の御導きによって
               またリングで会うことがあるだろう。」

          なお、この大会の成功の影には、ファンクラブのボランティアがあった。

          ※この後の「無我」の興行にはファンクラブのボランティアが多数参加して
            興行を手伝った。手弁当で日本中からファンが集まり、リング・会場の設営や
            チケットのもぎりから試合も見ずに、運営を「お手伝い」した。中には、ほぼ
            無償のボランティアも多く集まり、彼らは口々に、
            「藤波さんでなければ、誰も手伝いに来ませんよ」と、にこやかであった。

           藤波さんは「どういうんでしょうね、あの連中は・・」と発言して、喜びを表現していたが、
           これを悪意でとって、ファンを無料でこき使っている、などと曲解するものもいた。

          なお、新日本隊は、まさにこの日福岡でUインターとの対抗戦をやっていた。。
          平成の新日本プロレスの最大のヒットと呼ばれる「対UWF」に背を向けて
          藤波さんの興行に参加する人には、それ相応の矜持があった。



 ・11月 5日  広島大学で、藤波辰爾講演会が行われた。

 ・11月10日  東京のホテルで開催された剛竜馬の25周年記念パーティに
          藤波が出席した。

 ・11月17日  堺の仮説道場で、藤波はイギリスの選手と共に練習をしていた。そこへ
          剛竜馬があらわれ、闘いを要請した。
           この剛もそうだが、藤波の「無我」には、参戦希望の選手が次々と現れ、
          歓迎されるレスラーもいれば、そうでないレスラーもいた。

 ・11月21日  東京・渋谷の公園通り劇場での「渋谷系プロレス激闘伝説」に藤波が
          ゲスト出演し、ターザン山本とトークショウをした。

 ・12月13日  「無我」博多スターレーン大会「無我フォーエバー」を開催。全4試合。
          君が代の吹奏が行われて、イギリス勢も入場式に参加。藤波の挨拶
          「プロレスを大事にしたい」
          新日本からは、西村、クロネコ、ミスター高橋、田中リングアナが参加。
          藤波はジョー・マレンコと対戦し、飛龍裸絞めで勝利した。
         

 ・12月28日  フジテレビで「感動エクスプレス・藤波辰爾、中央アジア大草
          原紀行」が放映される。
 ・12月30日  大阪城で、突然卍固め猪木フェスティバルが行われる。佐山タイガー
          が小林と対戦。また、猪木は高田と組んで、藤原・山崎組と3本勝負。
          2本目に、猪木が山崎にフォールを奪われた。試合は2−1で猪木組
          の勝ち。藤波は参加せず。



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