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ドラゴン・炎の飛龍・大年表

 

●昭和51年(1976年) から 昭和52年(1977年) の出来事    いよいよ「アメリカ」に転戦。さらに「メキシコ」でルチャリブレを体験。

 月日
新日本プロレス・全日本プロレス・国際プロレス・世界のプロレス藤波選手を中心としたプロレス関連の主な出来事
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新日本プロレス・全日本プロレス・国際プロレス・世界のプロレス
藤波さんは海外遠征中ですので、当然、遠征先での出来事が中心です。日本での新日本プロレスの動きはほぼ出てきません。
●昭和51年(1976年)  22歳   海外遠征中 アメリカへ
1月   藤波は毎日ゴッチの元でのトレーニング。リングシューズもしまっておいての練習漬けだったという。         
 「ゴッチさんの家では、犬まで鍛えてましたよ(笑)」(藤波)
2月 藤波は、木戸と共にロサンゼルスの猪木に会いにゆく。
2月20日には、木戸が帰国。(木戸は凱旋帰国して、ビッグファイトシリーズに参加し、猪木とメインでタッグも組んでいる。)

「自分には日本からのお呼びがかからない」中、一緒に来た木戸には帰国の指令が来た。藤波はそのときをふりかえって、「ああ、いいなぁ。木戸さん、日本に帰れるのかぁ。自分は置いてけぼりをくっちゃったな」と少しやけになったりしましてね。それでも自分の中で心の整理をし、「自分でやるしかないのだ」とがんばりました。」(2014年・インタビュー記事)
「木戸さんが帰ってからの、ゴッチと二人きりの生活とトレーニング。この時間が後になってみると、すごく貴重な時間だったんです」
3月〜
3月9日、サウスカロライナ州のコロンビアで、ビル・ハワードと対戦。勝利を収める。この日からアメリカ南部での試合をこなしてゆく。
1980年代の書籍には「藤波は、ヒロ・マツダ、マサ斉藤、高千穂と会い、5月ごろ、試合をするためゴッチの家を離れる。経費節約のため運転免許を取る。」とあるが、実際には時期は春からサーキットをしている。

このころ、ブラックジャック・マリガンやワフーマクダニエルとも対戦。フロリダ地区ををサーキット。「ドクター・フジナミ」として各地を転戦。タンパ市のリングにあがり、テリーガービンを回転エビ固めでしとめる。
 「タツ・フジナミ」のリングネームで、グレート・マレンコとチェーン・デスマッチも経験。
5月or8月 8月ごろ、ロニー・ガービン(のちに第69代NWA王者になる。右のこぶし男))に「試され」る。(藤波の話・2010年)
 判明している藤波の熱戦譜で、最初に「ロニー・ガーニン」の名が挙がるのが
 「1976年5月1日 米国/ノースカロライナ州グリーンズボロ/グリーンズボロ・メモリアル・コロシアム
 □シングルマッチ    ロニー・ガービン(勝ち)ドクター・フジナミ」である。
 まあ、「試される」ということから、これが該当の試合と思われます。藤波がゴッチ流の意地悪なテクニックで返してゆくと、普通の試合に戻ったという。
5月11日 ノースカロライナ州ローリーで、7000ドル賞金マッチに出場。12人のバトルロイヤルで、残った2人が賞金を争う。また、退場順に2人づつ組み合わせて、シングルマッチを行うというもの。藤波はジン・アンダーソンと7番目8番目の退場となり、シングルマッチを行い、ジーン・アンダーソンに敗れる。 
 [参加選手] ティム・ウッド、ワフー・マクダニエル、ポール・ジョーンズ、ディノ・ブラボー、クロンダイク・ビル、ティオ・ティオ、ドクター・フジナミ、ブラックジャック・マリガン、アンジェロ・モスカ、ジン・アンダーソン、オレイ・アンダーソン、ブルーザー・ビル・ホワイト、ジム・ランカスター、ダグ・サマーズ なお、優勝戦はオレイ・アンダーソンと ティムウッドの対戦となった。
6月 4日 バージニア州のリッチモンドで、藤波はトニー・アトラスと組み、ジートとポロのザ・モンゴルスとタッグマッチで対戦。惜しくも敗れる。
このころ 海外遠征での楽しい思い出は? (インタビュー記事より)

それはいろいろ知らない土地へ行ったり、外国の美しい風景を見たりするのは楽しいです。でもむしろ大変だった…という思いが強いですね。アメリカの場合、試合場まで4時間も5時間もかけて車で往復でしょう。帰るのが夜中の2時か3時。それが連日ですからノンビリ遊ぶヒマがない。おまけに一試合30ドルか40ドルのギャラの時もあったですよ。食うだけで精一杯。
6月26日 日本では、ついに武道館で猪木・アリ戦が実現。フルラウンドの末、引き分け。当時の一般社会人の反応は「茶番劇」とまで酷評された。プロレスファンの間でも、前振りが異常に良かっただけに期待は大きく、試合自体への評価は低かった。
そのあと、たとえば当時プロレスには縁がなかったNHKの「みんなのうた」の、アニメの中で「猪木とアリとおもわれる二人の闘い」(ひとりが寝ころびアリキック)が描かれたり、20世紀を通じて、社会への影響は大きかった。

このころ藤波は、ノースカロライナ地区を転戦中。          
このころ  ●ドラゴン・ロケットを初披露 
 1976年にノースカロライナでの試合で、ドラゴン・ロケットをはじめて披露した。これは、1979年10月の雑誌インタビューで、「ドラゴン・ロケットはいつ覚えたんですか?」に対する藤波の答えから。

藤波「(昭和)51年、アメリカのノースカロライナの試合で、相手がリング下に落ちてモタモタしていたんですよ。わざとらしいんです。それで頭にきて飛び込んでやったんです。(笑)うまく命中しましてね。それから使うようになった。あれは練習ではやれませんよ。(笑)相手もたまらないですが、こつちも恐くてできませんよ。夢中で飛ぶんです。試合だと無我夢中、必死だからできるんです。あれ逃げられたら自分がケガするし、とにかく恐いですよ。」

 ただし、「メキシコでは一度もやっていない。ソラールやソリタリオのトペを見て、すごいことをやるなあ、とは思っていましたが」(藤波2012年DVD・BOXでの流智美氏との対談で断言)ということもあるので、現在からの真相究明?は難しい。
11月10日 藤波は、サウスカロライナ・グリーンズビルでポール・ジョーンズの「ガルフコースト・ヘビー級タイトル」に挑戦するも、敗れる。
11月15日

藤波はクイーンズビルで、ビル・ホワイトと対戦。引き分ける。

           
 

リングネームこそ「ドクター・フジナミ」と悪役のような名前だが、試合はテクニックで勝負する藤波。ラフファイターのビル・ホワイトを相手に熱戦を展開した。

●昭和52年(1977年)  23歳  海外遠征中 アメリカからメキシコへ
1月26日 ノースカロライナ州のローリーで、藤波はロン・スターと組み、ハリウッドブロンドスと対戦。

この後も、ラリーシャープ、ビルホワイト、リックフェララ、ブッチマローンらと対戦を重ねる。
2月15日    サウスカロライナ州コロンビアで、藤波は、ビル・ドロモとタッグを組み、ラニー・ボッフォ、ラリー・シャープ組に勝つ。
3月 ノースカロライナでポールジョーンズのミッドアトランティック・ヘビー級に挑戦。引き分け

藤波はリックフレアーと対戦し、引き分ける。(おそらくミッドアトランティック地区での試合と思われる)
3月12日 藤波はアメリカから転戦してメキシコ入り
ルチャリブレの試合にカルチャーショックを受ける。「これがゴッチさんに習っているプロレスと同じものとは思えない」
メキシコでは、「ドクター・フヒナミ」のリングネームで活躍。

この日、パチューカのアレナアフションで、「リング・フヒナミ」名でルイス・マリスカルと組んでルードでメキシコデビュー。
アルベルトムニョス・アニバル組と対戦。なお、この時は「ドクトル・フヒナミ」というリングネームだったとも。

このころ、ドラゴンロケットも実践で披露したとある。(1979年雑誌記事)新しいタイプの日本人レスラーとして、人気を博す。
だが、藤波自身「メキシコにいたときは、ドラゴンロケットは一度もやったことはない!」と断言している(2012年DVD・BOXでの流智美氏との話で) 藤波「よぉあんなことやるなあと(笑) ソラールやソリタリオのトペは憧れでした。リングの上から、観客席に、外へ一直線に飛んで。やってみたいとは思いましたが、怖さの方が先に立ってできませんでしたよ」(同、藤波の話2012年)
4月14日 藤波はマスカラスとタッグで対戦。仲間割れから新たな展開に
 トールカで、藤波はマスカラスと6人タッグで白熱戦を展開。試合中に藤波の水平うちが仲間のアンヘルブランカに当たってしまい仲間割れをした。孤立した藤波を浜田が助けに入った。この仲間割れからリンピオ(テクニコ)に転向。
 テクニコになったのを機会に「ドクトル・フヒナミ」から「リング・フヒナミ」に改名した。
               
 藤波「最初はルードだったんです。自分ではそういう意識はなかった。田吾作スタイルはゴッチさんからとめられていましたし。でも、パートナーは悪いことをしていました(笑)」

1977.4.14 メキシコ アレナ・トルカ
 ▼45分3本勝負 6人タッグマッチ
   ○マスカラス・アニバル・ドクトルワーグナー(2−1)セサールバレンチノ・アンヘルブランカ・ドクトル・フヒナミ(藤波)×

  1.○アニバル(9分14秒・体固め)バレンチノ×
  2.○藤波(4分32秒・体固め)ワグナー×
  3.○マスカラス(6分28秒・体固め)マーコス×

 ※この試合は藤波のパートナーが、セサールバレントノとグランマーコスだったという記録もある。
4月22日  日本では、吉田光雄がファンの公募により長州力と改名。ファンの公募というlことにしてあるが、あらかじめ社内で決定していたと山本小鉄が暴露している。リング上で長州が「はがきの山」から本当につまらなそうに選んだのが印象的であった。)

 長州が当時を振り返って「あ、これで、俺は終わったな。むこうが「ジャンボ」で、こっちは長州だよ。な、そうだろ?」(長州)
 聞かれた若手は、答えようがなかったと。(笑)
5月15日 藤波は、モンテレイで、レネ・グァハルドのUWA世界ミドル級王座に挑戦するが奪取ならず。      
  藤波「グアハルドは関節技が得意だったので、キーロックをリフトする攻防をやったら、すごく会場が沸いた」
5月22日 藤波は、パラシオ・デ・ロス・デポルデスでエル・ソリタリオの「UWA世界ライトヘビー王座」に挑戦。大善戦するも、奪取ならず。
1977年5月22日 パラシオ デス デポルデス
    ▼UWA世界ライトヘビー級選手権試合
      ○エル・ソリタリオ(勝ち)リング・フヒナミ×  ※タイトル奪取に失敗
6月 藤波はマスカラスと白熱戦を展開するも、敗れる。

そのころの藤波 「メキシコ人のガールフレンドはいます。アメリカを旅したり、メキシコに遠征したりで、僕はまだ若いですから、国際人になったみたいで楽しいです。何もかも自分ひとりでやってきて、自信がつきました。男一匹、やってみます」(メキシコ市での本拠地「ホテル・サンディエゴ」で。雑誌インタビュー記事)
6月 マスカラスと闘う藤波の写真が、「本誌ゴング7月号」の表紙になった。

6月2日 日本では、猪木がモンスターマンと格闘技世界一決定戦で人気を挽回。
8月11日 藤波は、トールカでカネックと賞金マッチ。
 藤波はカネックと闘い、1本目を原爆固めで奪うも、2本めはオクトパスホールドでとられ、決勝の3本めは、暴走して、反則負け。この試合には、5000ペソの賞金がかけられていたが、獲得できず。
9月16日 藤波は再び、カネックと賞金マッチ。
 藤波は再び、カネックと賞金マッチで闘い、1対1から、流血のした3本目、藤波がレフェリーと激突。コブラツイストでギブアップを得るも、レフェリーが起き上がれず、そのあとカネックの急所打ちで倒れたところ、レフェリーがカウント。それで藤波が敗れて、再び賞金はもらえず。
このころ 藤波は メキシコ・ティファナで、ミル・マスカラスと組み、カネック、ベビーフェイス組と闘う。
10月 藤波は、この月、UWA世界ジュニアライトヘビー級王座決定トーナメントに出場。
10月25日

この日、藤波は、バレンチーノに敗れ王座奪取ならず。
この後、アメリカ・ロス地区に転戦。

なお、藤波の、メキシコでの最後の試合は、浜田と組んで、カネック、ピラノ3世組との対戦。

アメリカ遠征中。試合後観客から「ナイス・ショウ」と声をかけられて、「ノー、「ナイス・ファイト!」だ」と。
このころの藤波の熱心さと「きまじめさ」を語るエピソード。

12月8日 日本では、闘魂シリーズ第2弾の最終戦で、猪木がグレートアントニオを血みどろKO。
12月15日 日本では、全日本プロレスの「オープンタッグ選手権戦」決勝で、ドリーとテリーのファンクスが、ブッチャー・シーク組(史上最凶悪コンビ)に勝つ。これまでの「プロレスの凶器」の範疇を超えた「フォーク攻撃」が話題になった。
 ※この項は、藤波の新日本プロレスとは関係がないが、当時の両団体の路線の違いを考慮し、参考のため挿入した。(後日、藤波もフォーク攻撃を味わうことになる)


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