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ドラゴン・炎の飛龍・大年表

 

  昭和49年「青春の若手時代」から、昭和50年(1975年)「カールゴッチ杯優勝」まで

実は、「藤波さんの歴史は、新日本プロレスの歴史」です。このページからは、豊富なエピソードで、藤波さんと新日本プロレスの歴史をたどります!

  藤波は、猪木のもと、新団体の旗揚げに全力を尽くす。旗揚げ第一試合をつとめる。苦しい団体経営を前座で支え、やがて海外遠征に出発する。ドイツからメキシコ、アメリカ転戦まで。


●昭和49年(1974年)  20歳   いよいよ「海外遠征に」 おおきく羽ばたくときが来た!

 月日
新日本プロレス・全日本プロレス・国際プロレス・世界のプロレス藤波選手を中心としたプロレス関連の主な出来事
試合・大会関連  タイトルマッチ  トピックス 主なエピソードなど
新日本プロレス・全日本プロレス・国際プロレス・世界のプロレス
●昭和49年(1974年)  20歳  
1月 2日 神宮外苑でマクガイヤーブラザースのミニ曲芸(バイク乗り)と、マイティ・カランバのロープをくわえるバス引きが行われた。
1月 4日 船橋で「新春黄金シリーズ」が開幕。
1月11日

新春黄金シリーズ第6戦・徳山で、藤波は、マクガイヤー兄弟と、4人の変則マッチで対戦。(※この時のテレビ放映が、藤波の初テレビである、という話もある。おそらく違うと思いますが、未詳)

1月18日  後楽園ホールで、藤波は、マクガイヤー兄弟との6人変則マッチに出場。山本小鉄・小沢・木村・栗栖・荒川・藤波組でも勝てず。
この11日と18日のマクガイヤーとの変則マッチはテレビ中継され、藤波ら若手は「テレビに出るのはいいが、内容がなぁ・・・」と嘆いたという。
              すごい場面ですね!
 なお、この日、星野勘太郎の新日本入団が発表され、20日から参戦した。
2月13日 国際プロレスのストロング小林が、早稲田の喫茶店「ルナ」の2階で記者会見。国際離脱のフリー宣言と、猪木への挑戦を表明した。(編者cacao86 は、後日「ルナ」の2階に行き、その場所に座って、小林の緊迫した場面を夢想してみました。なにごとも現場が大事、って、なにやってんだか。)
3月19日 蔵前で、猪木がストロング小林と対戦。元・国際のエースに、見事な原爆固めで勝ち、NWFタイトルを防衛。なお、この試合は「90分一本勝負」という異例の時間設定であった。「昭和の巌流島」とあおられたこの試合は、思いのほか好勝負となったが、最後は、猪木の、つま先立ち・自分の頭が先にリングにつく伝説の「原爆固め」で完全決着。
4月 5日 第1回ワールドリーグ戦の開幕。(5月8日まで)
決勝リーグでは、猪木、坂口、クラップの三つ巴となり、猪木が初優勝。
5月24日  ゴールデンファイトシリーズが開幕。 このシリーズのパンフレットに「おれはゆく。僕のおふくろ」と題して、藤波の特集ページが掲載された。
 画像リンク

このころ藤波と小沢に東南アジア遠征の話が出るも、立ち消えとなる。

6月26日 最終戦の大阪で、猪木がシンの腕を骨折させる。これは前回の防衛戦でのシンの火炎攻撃に対する報復だったが、腕を骨折させ、「折ったぞ〜!」と叫ぶという、当時としてはプロレスの範疇を超えた闘いは、ファンに強烈な印象を与えた。
7月30日 名古屋で藤波はジャッキーカーペンティアと対戦。
 8月 8日 吉田光雄(長州)がデビュー戦。東京・日大講堂で、相手はエル・グレコ。サソリ固めで勝つが、正直、ファンのこの時の印象は薄かった。
8月20日 宮城県気仙沼で強化合宿(27日まで)
8月30日 闘魂シリーズが開幕。後楽園ホールの控え室に、大木が猪木への「挑戦状」を持って来る。この時の猪木の発言「玄関から土足のまま入って来やがって」に、cacao86 親子は文字通りに受け取ってしまい「それはひどい」と話し合った。
 9月16日 藤波は木戸と組み、星野・山本と対戦。ヤマハブラザーズの胸を借りる。
10月10日 蔵前で、猪木が大木を下す。フィニッシュ間際の大木の「原爆頭突き」の連発を猪木が真正面から受け続け、最後にストレート(に見えたが、実はエルボー)1発で勝利の場面、さらに試合後の両者の男泣きは名場面である。
なお、この試合で、藤波は大木の入場時に先導し、テレビに大きく映っている。

※この9月から10月にかけての「闘魂シリーズ」には、ボルコフのマネージャーというふれこみで、フレッド・ブラッシーが来日。試合にも出場した。連日のように、木戸、小鉄、永源らとシングルが組まれ連勝。一度だけタッグで猪木と対戦した。まだ若手だった藤波は、直接の対戦はなかったものの、セコンドして触れる機会があった。力道山時代にテレビで見たブラッシーは、当時としても「レジェンド」であったといえる。

藤波は「フレッド・ブラッシーとも闘いました。あの「噛みつき攻撃!」の。もちろん、噛みつかれて、逃げるんだけれども、なんか、嬉しかったですね」(2015年インタビュー番組で)
10月21日 新日本プロレスの台湾遠征。(23日まで) 猪木、坂口、山本らとともに藤波も遠征に参加した。これは、台湾の陸軍・警察学校の招待によるものでエキシビションマッチが主体であった。

10月25日 後楽園ホールで闘魂シリーズ第2弾開幕。この時シリーズでは若手のリーグ戦として、「第1回カールゴッチ杯」争奪の対戦が行われた。その第1戦がおこなわれ、藤波は小沢に敗れる。

12月 8日 第1回カールゴッチ杯争奪リーグ決勝で、小沢を破り優勝。優勝賞金100万円を獲得すると同時に、海外遠征の権利をつかむ。(愛知県刈谷市体育館)
この試合はテレビ放映され、特別レフェリーは、猪木。「このときのテレビ放映が、藤波のはじめてのテレビマッチ」という情報がある。(未詳・調査中) 

●テレビ画面より試合の写真です

]藤波をロープに詰める藤原(画面にテロップ「小松製作所」)


離さない藤原にレフェリー猪木のカウント

一瞬目を離した藤原に藤波のパンチが飛ぶ

うらめしそうに猪木を見る藤原

さあ、いくぞ! 気合の入る藤波

◆12月8日 愛知・刈谷市体育館
 ▼カールゴッチ杯決勝戦20分1本勝負
  ○藤波(10分37秒・逆さ押さえ込み)小沢×

試合に勝った藤波は、リング上で、猪木から鹿皮のチョッキを着せてもらい大トロフィーを手渡された。


 藤波はこの試合を振り返って、「対戦相手の小沢より、レフェリーの方が怖くて
 猪木の評「藤波は肉体的なハンデを克服してよく闘ったよ。やはり、こういう勝負の時は、肉体だけの勝負じゃない。藤波は闘魂という精神の部分で、肉体派の小沢に勝った。これは大事なことだし、私は、今日の勝利を高く評価している。私が求めていたファイトを藤波はやったよ」

 小沢「年上の俺が優勝するつもりでいたら、レフェリーの猪木さんが、逆さ押さえ込みで、藤波を勝たせた(笑)」(2015年藤波・小沢「居酒屋」対談より)(これに対し、藤波は「おっさんだったら、アメリカでも居酒屋ができるよ」(笑)と切り返した。)
12月12日

蔵前で、猪木がストロング小林と2度目の対戦。小林が「星条旗よ永遠なれ」、猪木が「聖者の行進」で入場。このとき、藤波は猪木の先導をつとめた。試合は、レフェリーのミスジャッジで始まり異様な雰囲気で進み、最後は猪木の卍固め。

12月15日  新日本プロレス初のブラジル遠征。サンパウロで藤波は藤原に勝つ。この日、猪木はアンドレと対戦。日本では12月27日に放映されたが、スタジオで、猪木、坂口をゲストに船橋アナが進行役として番組が構成された。この番組の最後に、日本選手権を開催したいという方向に話が行き、またまた猪木が「馬場さんに挑戦を受けてもらいたい」と発言した。
 ブラジル大会は、19日にもロンドリーナで開催し、藤波は星野と対戦し敗れる。
●昭和50年(1975年)  21歳    いよいよ「海外遠征」に 西ドイツで「キャッチ」の修業

 1月 3日 越ヶ谷での新春黄金シリーズ開幕戦で、藤波はウラカンラミレスと対戦。
 このい当時の藤波は、メキシコのルチャのリズムを知らず、メキシカンストレッチに苦しんだ。
 1月 4日 藤波は、東京スポーツ新聞社の「プロレス大賞・新人賞」に選ばれる。
 2月 6日 最終戦で、マクガイヤー兄弟と猪木が変則マッチに快勝。記者会見で「シンの挑戦をうけよ」というNWF勧告に怒りをぶちまける。
 2月14日  大阪府立で猪木がブルートバーナードと一騎打ち。場外で暴れる「狂人」バーナードから藤波ら若手がお客さんを守った場面がテレビに映っていた。
 2月21日 ビッグファイトシリーズ開幕。猪木はシンと抗争を続ける。(3月13日 王座決定戦でシンが勝ちタイトル獲得。20日シンが勝ち初防衛。)

第2回ワールドリーグへの出場権を賭け争奪戦が行われ、藤波も出場するも出場権は得られず。
 3月 9日 福岡県内で昼夜ダブルヘッダー興行。
 3月13日 広島で猪木とシンで、NWFヘビー級選手権王座をかけて対戦。シンが勝つ。
 4月 4日 蔵前で第2回ワールドリーグ戦開幕。このリーグ戦は決勝で猪木がクラップを破り2度目の優勝を果たす(5月16日)
 4月26日 藤波は、ストロング小林と初タッグ。
 5月30日 ゴールデンファイトシリーズの開幕戦。藤波は、木戸とともに後楽園のリング上で海外遠征に出発することをファンに紹介される。
右から木戸・藤波・浜田・タケシ
 6月 1日 君津市で藤波は小沢と組み、星野・山本組と対戦。藤波が山本に敗れ、この試合が、遠征前の最後の試合となった。
海外遠征
6月 5日 藤波は木戸と共にヨーロッパ遠征に出発。ことばもわからず悲壮な旅立ちであったという。羽田空港で「5カ国語会話」の本を買う。

西ドイツについた途端、試合が組まれていた。
「試合は5分5ラウンド。基本的には普通のプロレスルールだけれど、倒れた相手を蹴っちゃいけないの。グランドはOKなんだけれど、スタンドから攻めてはいけないの」(藤波)
「興業はサーカスと同じで、サーカス小屋の隣にプロレス小屋があって、一定期間そこでトーナメントの試合を組む形式。プロモーターのグスタル・カイザーには可愛がってもらったよ」(藤波)

              ★藤波の海外遠征時の試合記録(資料)

※西ドイツでは、伝説の「ウイルヘルム・デートリッヒ」と遠征初日に対戦したとか(藤波「まったく相手にならなかった」)
ありますが、これは、日時・場所も特定できていません。(旧西ドイツの暫定首都・ボンという情報有り)
6月 6日 ターカー・カリッツと対戦し、敗れる。
 6月 7日 ピーター・カイザーと対戦し、敗れる。この後、マイケル・ネーダーやホースト・ホフマンとも闘う。

 「西ドイツに入って、ホースと・ホフマンに試された。この時は試合をしてて、死ぬかと思った。そんなのは、この時ぐらいです。何もできなかった。もうオモチャに(されて)参ったよ」(藤波)

西ドイツ遠征中、食事・洗濯など毎日の生活すべてが大変であったという。

ドイツを転戦。ボンではデートリッヒとも闘い敗れる。(日付未詳) オットー・ワンツとも闘う。(8月7日)
「ハノーバー・トーナメント」に出場。(準決勝で惜敗という情報もあり)

このころ、木戸と共に当地のテレビショウに出演。ヒンズースクワットを披露。「日本から来た若いプロレスラー」と紹介され、番組の冒頭から終了までヒンズースクワットをやり続けた。「もうやめてよし、の合図がなかったんでね」
    ニュールンベルグにて(1975) 

 「海外武者修行なんていっても、実際に会社がしてくれたのは、西ドイツ行きの手配だけ。片道切符ですよ。あとは自分で稼いでゆくしかなかった」(藤波の話)

 
藤波は、(6月か7月に)ヨーロッパヘビー級チャンピオン、デュアン・ブレストンに挑戦し、ストレート負けだった(木戸の話)「ヨーロッパ遠征といっても、イギリスやフランスには行くこともなく、西ドイツとオランダに遠征をしました」 
           ★リンク ドイツ遠征時代の資料

西ドイツにて 

11月

 藤波は木戸と共にドイツからアメリカに移動。カールゴッチの元でのトレーニングを開始。

ゴッチと木戸、藤波の3人の練習風景が東京スポーツに掲載された。

このころ、藤波は、記者のインタビューに答えて、「フロリダにいる吉田選手(長州)には、絶対に負けたくない」

「ゴッチさんの家では、毎日が練習というかトレーニング。里心がつくからと、日本語の雑誌も取り上げられ、むしょうに日本語が話したくなるんだけど、一緒にいた木戸さんは極端に寡黙な人なんだよね(笑) 朝は精悍なマーチで起床。おかげで僕も、音楽といえば、マーチになりました」(藤波)



「朝は、6時に起きて、5マイル走るんです。」
 「よくそんなゴッチさんと24時間一緒にいたなあ。窮屈だったでしょ?と聞かれますけど、そんなことは僕はなかったですね」(藤波)

12月11日 日本では、猪木がビル・ロビンソンと闘い、1対1で引き分ける。
12月15日 猪木がューヨークMSGに初登場。モハメッド・アリとの対戦に向けても動き始める。
12月19日 猪木・坂口組がロサンゼルスでインフェルノスと北米タッグ戦。藤波は木戸と共にセコンドにつく。
試合の写真・藤波も若い!
          
           木戸とともに、猪木・坂口組のセコンドについた藤波

この日、藤波自身はミッキードイルと対戦し、相手ののど元をねらった鋭いドロップキックが場内を沸かせた。猪木を意識したようなナックルパートも見せ、最後は高速のダブルアームスープレックスから一気に体固めで快勝した。赤いタイツの、はつらつとした藤波であった。
この試合の模様は、猪木・坂口組の試合とともに日本で放映された。
この2試合は動画として記録されていて、DVDなどでも見ることができる。貴重な動画である。

なお、この試合の実況の船橋アナより、「藤波はカールゴッチの元で、修行中で、毎日6時間の練習をこなしている」と紹介された。また、「西ドイツでの藤波と木戸のタッグは、127勝2敗でした」と、謎の(笑)勝敗記録を紹介し、「10月のアムステルダムでのタッグトーナメントでは優勝した」としている。(これも謎・笑)

 

「別冊ゴング」1975年8月号中綴じ込みページの「日本レスラー名鑑」より
若手のひとり藤波。



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