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 ドラゴン・炎の飛龍・大年表 

  昭和42年の「新日旗揚げ」から、昭和52年(1977年)「藤波海外遠征」まで

実は、「藤波さんの歴史は、新日本プロレスの歴史」です。このページからは、豊富なエピソードで、藤波さんと新日本プロレスの歴史をたどります!

  藤波は、猪木のもと、新団体の旗揚げに全力を尽くす。旗揚げ第一試合をつとめる。苦しい団体経営を前座で支え、やがて海外遠征に出発する。ドイツからメキシコ、アメリカ転戦まで。


●昭和47年(1972年)  18歳   いよいよ「新日本プロレス」旗揚げ

 月日
新日本プロレス・全日本プロレス・国際プロレス・世界のプロレス藤波選手を中心としたプロレス関連の主な出来事
試合・大会関連  タイトルマッチ  トピックス 主なエピソードなど
新日本プロレス・全日本プロレス・国際プロレス・世界のプロレス
試合データ
いろいろデータ
です
●昭和47年(1972年)  18歳   いよいよ「新日本プロレス」旗揚げ
1月12日 日本プロレスは、ユセフ・トルコ、大坪清隆両取り締まり役を解任、並びに山本小鉄(12月12日に辞表提出)、木戸・藤波(合宿所から逃走したまま)の3選手の選手契約破棄を発表した。

藤波は猪木のマンションに一室を借りて住み込み、事務所のソファーに寝ることもあったという。
藤波「当時、僕はマンション住まいですから、すごいでしょ(笑)」

1月26日  猪木が京王プラザホテルで、「新日本プロレス」設立を発表。渋谷区猿楽町パシフィックマンション内に設置。代表猪木寛至。資本金1000万円。
1月29日 






猪木邸の庭に新日本プロレスの道場がオープン。世田谷区上野毛。ここは、もとは歌手・畠山みどり邸。
午後4時から、記念の鏡割りで「やるぞー!」と気勢を上げたあと、猪木が木戸と藤波を相手に稽古をつける。この日、新人募集も行われる。だが、山本小鉄の厳しさに全員脱落。★エピソードにリンク

    道場開き

   


 道場にて

 道場にて 練習しているのは木戸と藤波
    (木戸が押さえ込み、手前が藤波の足)

   猪木と山本の公開練習・後方に藤波の姿も

         

 この当時、新日本プロレスの事務所には、猪木の関係者数人が寝起きしているだけで、旗揚げのため奔走する猪木が不在のことが多く、道場は山本小鉄が取り仕切った。道場破りが来ることもあり、小鉄や木戸がお相手をした。小鉄「誰の挑戦でも受ける!って言って、猪木さんはいないんですから(笑) プロがなめられたらいけないので、僕は、相手の腕を折りました」

 日本プロレスの事務所はわずか数百メートル離れただけなので、血の気の多い日プロの選手等が殴り込みに来ることもあったという。

 事務所に藤波はじめ選手がいるときに日本プロレスの中堅レスラーが来ると、レスラー同士のトラブルをさけるため、奥に逃げ込むこともあったという。
2月25日







新日本プロレス道場で、旗揚げシリーズに参加する外人選手が「公開練習」をおこなった。

小鉄や木戸、藤波が、ポスター貼りをしたり、猪木自らもチケットの販売、関係者への挨拶回り、と、まさに手づくりで「旗揚げ」の準備をすすめた。藤波は、2人一組で電柱にポスターを貼ったり、飛び込みでチケットを売りにいったという。
 藤波「なにしろ、猪木さんしか有名な選手はいないんですから、そう簡単には切符は売れなくてね。でも、応援してくれる人も(少ないですけど)いました」

この当時、「藤波では、戦力にならない」との評があり、これにはさすがに奮起した。
 3月 6日

 3月 6日 新日本プロレス旗揚げ戦が、大田区体育館で行われた。

 藤波は旗揚げ第1戦を、エル・フリオッソと闘う。初の外人との対戦。
 
「悪党フリオッソの凄まじい反則アタックに、若い藤波は、もみくしゃにされ、カウンターキックにダウンして4分20秒、フォール負け」と試合評される。
    

 
豊登が特別参加して猪木に協力。タッグマッチに出場した。
 この日のメインは猪木対ゴッチ。ゴッチはこの試合に所有のベルトをかけると宣言。試合は、ゴッチの原爆固めを猪木が変化させ逃れるもゴッチのリバーススープレックスホールドが決まり、15分10秒ゴッチの勝ち。観客を酔わせ、新日本プロレスの「ストロングスタイル」の方向性を打ち出すものとなったといわれる。観客席には倍賞美津子夫人はもとより倍賞千恵子、坂本九、柏木由紀子夫妻の姿も見られた。        

 猪木「私たちは、力道山先生の精神を受け継ぎ、真のプロレスをやってゆきたいと思います」(猪木のリング上での挨拶から)
 猪木「お客が入ったんじゃなくて、入れたんです」(後の猪木のインタビューから)

 藤波「誠心誠意、精一杯のファイトをやっていれば、必ず、ファンは付いてきてくれる、と、いつも猪木さんが言ってましたし、僕も、そう思って、がんばりました」

★旗揚げ第1戦の藤波・フリオッソ戦のファイルを見る(他の写真つき)


旗揚げ大会を見に行きました(投稿)を見る
試合データ 
新日本プロレス旗揚げ戦
昭和47年(1972年)3月6日 大田区体育館


▼20分1本勝負
 ○エル・フリオッソ(4分20秒・エビ固め)藤波×

▼30分1本勝負
 ○イワン・カマロフ(12分20秒・体固め)木戸×
 ○魁(15分16秒・エビ固め)ブルックリン・キッド×
 △柴田(17分・両者リングアウト)インカ・ペルアーノ△

▼60分3本勝負タッグ
 豊登・山本(2ー1)ドランゴ兄弟1 ○山本(20分・体固め)ジョーン×
2 ○ジョーン(10分10秒・体固め)山本×
3 ○日本組(6分36秒・反則勝ち)外人組×

▼時間無制限1本勝負
 ○カール・ゴッチ(15分40秒・体固め)猪木×

3月16日 愛媛大会。藤波は、この日デビューの浜田からプロレス入り初のシングル勝利。藤波は、この日はバトルロイヤルでも新日初優勝。
          
データ

◆3月16日 愛媛・愛媛県民会館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(9分55秒・逆エビ固め)浜田×
3月23日 茨城大会。この日は、関東での興行で、各スポーツ紙の記者が観戦に訪れている。ただ、「観客は少なく閑散としていた」(流智美氏・2012年) バトルロイヤルも行われ、当時の写真が、このころの試合の雰囲気をよくあわらしてくれている。
★リンク
「試合の光景」ファイルに


4月 6日






越谷大会でシリーズ最終戦。旗揚げオープンニングシリーズ第1弾は全14戦だった。この日のメインは、猪木・柴田組が2−1でジョンドランゴ・ペルアーノ組に快勝。

猪木は、試合後「日本テレビが俺のところにきたよ」と爆弾発言。この数日前に、NETテレビに馬場が坂口とともに登場して、日本テレビを激怒させていた。4月7日の実況中継で担当の徳光アナが「あと何回馬場さんの試合を放送できるかなあ」と漏らしていたという。このテレビ中継問題も、日本プロレスが崩壊への道を転げ落ちてゆく要因になった。

新日本プロレスの地方会場では、実力も知名度もない外人を相手に快勝する猪木に、「猪木、つまんねえぞ」のヤジも飛び、観客動員数も伸びなかった。   
  
◆4月6日 埼玉・越谷市体育館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(11分54秒・足固め)浜田×
 4月28日 この日、千葉で「旗揚げオープニングシリーズ第2弾」が開幕。5月24日の盛岡大会まで全国を廻り、全14戦。
当初、ビル・ロビンソンの参加が宇わされていたが実現せず。まったく名前のしられていない外人選手を相手に、猪木の孤軍奮闘が続く。

    こういった外人

 藤波は、連日、浜田との第一試合に出場。前シリーズの4月2日以来、14試合連続で対浜田戦。戦績は13勝1引き分け。藤波はまた猪木の付け人としてセコンドにもつく。
           

  選手も営業スタッフも不足し、苦しい興行が続く。藤波は連日、浜田との第一試合に勝利してゆく。※秩父での大会(興行日未詳)では、観客が10名であったという。(藤波著「無我」による)
  藤波「思い出の中で、秩父大会は観客が数十名。小鉄さんは「ひとりでも来てくれたらやる」と発言した」(2012年インタビュー) それでも、とにかく「熱き闘い」を提供することに努めた。

    47.5.11
  大阪府立

このころの藤波に対して「黙々と、第一試合で、浜田と闘う姿は、僕は認めていたねえ」(2012年新間氏インタビュー)
◆旗揚げオープニング・シリーズ第2弾 4月28日 千葉・千葉県体育館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(16分18秒・逆エビ固め)浜田×



































◆5月11日 大阪・大阪府立体育会館
 ▼15分1本勝負
  ○藤波(13分38秒・体固め)浜田×
6月13日 旗揚げオープニングシリーズ第3弾が開幕。初戦は大田区体育館。7月4日の姫路大会まで全10戦。なお、この日から浜田が「リトル浜田」と改名。

このシリーズは、日本プロレスからの妨害もあり、ゴッチのルートにたよるだけでは、前にもまして有力外人選手が参加しておらず、
「このシリーズも猪木の独り舞台か」と新聞にも書かれてしまい、事実、その通りになった。
◆旗揚げオープニング・シリーズ第3弾 6月13日 東京・大田区体育館
 ▼15分1本勝負
  ○藤波(10分21秒・逆さ押さえ込み)浜田×   ※この日から「リトル浜田」
 6月27日 藤波がリック・ニールから回転エビ固めで勝利。外人から初の勝利であるとともに、このリック・ニールは「旗揚げオープニングシリーズ第3弾」のエース級外人でもあり、「金星」といえる。このときの藤波は、身長186センチ体重は90キロ(パンフレットによる)
          リック・ニール
  「僕に負けるようじゃ、きっとどうしようもない選手だったんでしょうが・・(笑)、でも、勝ててよかったです」(2012年藤波)
◆6月27日 長野・諏訪湖スポーツセンター
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(14分28秒・回転エビ固め)リック・ニール×
7月 7日 新しい事務所が南青山の「井植ビル」にオープン。
 
7月24日 豊中で「ニューサマーシリーズ」が開幕。最終戦の8月30日板橋区体育館まで、北海道から全国を廻り全22戦を行った。

このころから、ファンの間でも、「新日本の会場は、活気がある」とも言われはじめた。このシリーズには、力道山時代の映画俳優レスラー・ハロルド坂田も参戦。映画「007ゴールドフィンガー」の役の格好で、トレードマークの山高帽を持参して日本側について参戦し話題となった。(8月1日の帯広大会では猪木と組み、メインに登場も、それ以外のレスリングの試合に関しては、特記事項なし)

後日、藤波が新日本プロレスの長い歴史を語るとき「ハロルド坂田やブラッシーとも闘っています」とよく話題にしている。藤波との対戦やタッグは公式記録には見あたらない。おそらく「ともに闘って来た」という意味と思われる。

  ハロルド坂田
 9月 9日 千葉県の大原海岸で日本人全選手が合同合宿(11日まで)
          
9月16日 ニューゴールデン・シリーズ」が土浦大会で開幕。10月25日の富山まで全23戦。このシリーズは、レッド・ピンパネールがエース格。(10月4日から20日まではカールゴッチが特別参加。2度にわたって猪木と対戦するが、シーンリーガン・ピンパネールとタッグを組む時以外は、外人選手と対戦。)よって、マスコミにも「勝ってあたりまえの相手に、勝って、あたりまえ」という評があった。

新間氏「アベヤコブに覆面をかぶせてピンパネールにしたが、あれは苦肉の策。素顔の顔写真の上にマスクの絵を描いて発表した。それくらい金がなかった」
10月 2日 新日本の事務所で、猪木がゴッチに挑戦する選手権試合の調印式。猪木、ゴッチ、テーズの3人は、その後、力道山の墓に出向いた。
10月 4日 蔵前で、猪木がゴッチのもつ世界ヘビー級選手権に挑戦し、リングアウトでこれを破る。
猪木が場外からロープ越にリングインして一瞬ゴッチよりもはやかった。27分17秒で猪木のリングアウト勝ち。レフェリーはルー・テーズ。この試合の模様は、東京12チャンネルが単発で放映。新日本プロレス初のテレビ中継だった。

藤波「あのゴッチの足の張りをみた?凄かったねえ」(試合前の控室で記者に) この藤波の発言について、ファイト誌の井上編集長は「ああやって、盛り上げていく藤波に、うまさを感じた」という。
10月10日 大阪府立大会で、ゴッチが猪木の持つタイトル王座を奪回に成功。
10月16日 この日のスポーツ紙上で、猪木が「統一日本王者を決めよう」とぶちあげる。
10月18日 大分大会で、藤波がジョン・コワルスキーにフォール勝ち。
 このシリーズで、藤波はコワルスキーと6回対戦し、2勝4敗の成績をあげた。
    ジョン・コワルスキー
◆10月18日 大分・大分市体育館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(6分48秒・体固め)コワルスキー×
10月21日 町田で、全日本プロレスの旗揚げ前夜祭が行われる。メインで、サンダー杉山とタッグを組んだ馬場は、サンマルチノ、テりーファンク組に2−1で敗れる。
 なお、この試合結果は系列のいろいろな番組でも流され、深夜のラジオ番組でも、報道された。「馬場組が、負けました。なに?負けたらいかんがな」(桂三枝)
この日、新日本プロレスは、前橋大会を開催していた。
  ※馬場が全日本を立ち上げたことで、いよいよ日本のプロレス界は変換期を迎える。「日本プロレス」「国際プロレス」「新日本プロレス」「全日本プロレス」の4団体の並立。
11月12日 和歌山県白浜大会で、「ニュー・ダイヤモンドシリーズ」が開幕。12月11日の仙台までの全20試合。
 藤波は、この日がデビュー戦の藤原の相手をつとめる。この試合は「良いファイトだった」と猪木に誉められるも、次の対戦では試合中に猪木に気合いを入れられたという。(11月15日の高知大会か?)

このシリーズのパンフレットで、藤波のドロップキックが「飛び出しナイフと呼ばれる」と紹介された。ちなみに、パンフレット表紙は「ライオンマーク」、売価100円。なお、この新日本プロレスの「ライオンマーク」は、山本小鉄と藤波で作成し、英単語の「SPORTS」のスペルに二人とも自信がなく、近所の高校生に「これで、いいか?」と、確かめたというエピソードを持つ。
◆ニューダイヤモンド・シリーズ 11月12日 和歌山・白浜町坂田会館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(11分33秒・逆片エビ固め)藤原喜明×
11月23日  福岡県甘木大会で、藤波はタッグマッチを初経験。藤原と組み、浜田・荒川と対戦した。荒川・栗栖・藤原らの新人を迎えての藤波インタビューでは「新人が入って、いい刺激になります。稽古量が増えるから、力がつきいいファイトができます」と答えている。
 また、この頃を振り返って「気の抜けた試合をすると、控え室から猪木さんが飛び出してきて、ガツーンとやられた」とも。
◆11月23日 福岡・甘木青果市場
 ▼20分1本勝負タッグ
  ○浜田・荒川(17分25秒・回転エビ固め)藤波・藤原×
             ※藤波の初タッグ
12月  ことし一年のしめくくりとして、箱根で特別キャンプをはった。
           
          この希望にあふれた笑顔の「新日軍団」を見よ!
●昭和48年(1973年)  19歳
1月11日 東京足立区体育館で「新春バッファローシリーズ」開幕。2月20日横浜大会までの全21戦。エースはザ・タイガーなるマスクマン。覆面の中は、のちにシープハーダースの一人となるブッチ・ミラーで、タッグながら猪木からフォールを奪っている。
このシリーズの終了とともに、団体の体制が変わってゆく、またテレビ中継が始まる前の最後のシリーズとなる。また、旗揚げ以来参戦していた豊登が、「テレビがつくまで」という公約通りこのシリーズを最後に引退した。


なお、このシリーズ中の1月21日には、福岡県内2会場で、いわゆる「昼夜ダブルヘッダー興行」を行った。

「熱戦譜」より

  ◆1月21日 福岡・稲築山野鉱業グラウンド
   ▼20分1本勝負
    ○魁(10分27秒・首固め)藤波×

  ◆1月21日 福岡・二日市中央公民館裏広場
   ▼15分1本勝負
    ○藤波(6分39秒・首固め)栗栖×

1月28日  藤波の故郷で試合。武蔵東小学校校庭。(国東町体育館という記録もある) ◆1月28日 大分・国東町体育館
 ▼15分1本勝負
  ○藤波(11分3秒・足固め)浜田×
1月31日 愛媛県大会で、この日藤波は回転エビ固めを決められ、荒川に初めて敗れる。この日のバトルロイヤルでは、その荒川がアキレス腱を切ってしまう。翌日、東京に帰るとき、猪木におぶさって飛行機に乗ったというエピソードがある。 ◆1月30日 愛媛・三瓶町東中学校グランド
 ▼15分1本勝負
  ○荒川(12分37秒・回転エビ固め)藤波×
2月 8日 坂口が移籍を発表。坂口が小沢・大城・木村をつれて、日本プロレスを離れ、3月から、新日本プロレスに移籍合流する。これを「京王プラザホテル」での記者会見で発表した。
 最初に猪木と坂口の発表したプランは「新日本プロレス」を解消し「日本プロレス」と合併、新会社を設立というものだった(これは後日、日本プロレスの大木が反対して実現せず)
 日本プロレスの実質エースだった坂口の離脱で、老舗の日本プロレスは窮地をむかえることになる(事実、エースが大木では・・・) 反して、猪木・坂口の2大看板がそろって「新日本プロレス」は、飛躍の第一歩を歩みだした。
 2月26日 レフェリーのユセフトルコがホテルニュージャパンで記者会見。猪木に不満で退社を表明。(猪木と新間氏のラインに反旗)
3月  ・ 3月    「プロレス」誌上で、藤波と浜田が技の紹介をする記事に登場。若いころの貴重な写真である。
            

なお、この3月ころから、藤波は猪木のスパーリングの相手をするようになる。
3月 8日  日本プロレスの佐野大会。坂口の日本プロレスの出場最後の大会。坂口とともに新日本に移籍する大城が桜田に場外ノックアウトにされた。
 坂口は大木と組んでクラップ組に快勝。最後のつとめを果たした。
 なお、当日のメインは高千穂がジョニーバレンタインに2−1で勝ちUN選手権者になった。(1本めは両者リングアウト、3本めは、バレンタインが場外に降りてリングアウト で高千穂の手が上がった、試合は9割9分までバレンタインが攻め、不思議な王座交代劇であった)
3月中旬 テレビの企画で、「猪木のアフリカ特訓冒険旅行」があり、この旅に藤波は同行する。初の海外旅行。アフリカでは、寝ていて大型の蟻に身体中を襲われる経験をする。ケニアからタンザニアに20日ぐらいかけて回った。なお、猪木のこの番組は東京12チャンネル(現、テレビ東京)で、「アントニオ猪木の大冒険」として5月に放映された。

この旅の最後に、「日本から急用が入ったから」と猪木が帰国。藤波はジャングルに取り残されたというエピソードも伝えられている。
藤波「ある意味では、一番自分にとって試練だったのは、猪木さんとアフリカに行って、置いてこられたことだね(笑) まだ19歳の時だよ。アフリカと言っても街中じゃなく、ジャングルの中にあるテントに(本当に)置いてけぼりを食らったんだからね。これはもう忘れられないですよ」(2012年インタビュー)
藤波「帰りのインドでのトランジットはどうするんだっけ、とか行きの時のことを必死に思い出して(笑) なにしろあんな何もない奥地に、日本から帰って来いという連絡なんて入るはずがないよね。ときどき、ああいう思い切ったことをするんだよ、あの人は」
 (2000年、NHK英語の雑誌「英語A to Z」インタビュー記事)
3月30日 大田区体育館で「ビッグファイトシリーズ」が開幕。その第1戦、リング上から坂口らの移籍の挨拶があった。藤波はバーンジールに敗れる。またレフェリーのミスター高橋が加入した。
藤波は体重が100キロの大台にのり坊主頭から長髪に変身した。
 (※高橋が加入したのはこのシリーズからなので、これ以前の試合にレフェリー高橋は関与していない。したがって、旗揚げ第一戦などについても後日いろいろと語られているが、当然、高橋はレフェリングしていない)
          
           藤波vsバーンジール
 ※旗揚げ以来の、この1年間の興行は、猪木とゴッチの対戦を売り物にした2戦以外は、すべて赤字興行であり、その間、猪木夫人であった倍賞美津子の女優としての収入も、新日本プロレスの運営に宛てられたといわれている。猪木と山本小鉄は、ノーギャラでがんばってはいたが、苦しい経営が上向くことはなかった。
★リンク
「藤波 vs バーンジール」の試合ファイル
◆3月30日 ビッグファイト・シリーズ 東京・大田区体育館
 ▼20分1本勝負
  ○プロフェッサー・バーン・ジール(8分23秒・体固め)藤波×
 4月 6日 NETの「ワールドプロレスリング」放映開始。(金曜夜8時から)

番組冒頭の舟橋アナの「まさに日本のプロレスの夜明けです!」は、歴史に残る台詞となった。宇都宮スポーツセンターからの生中継で、猪木が柴田と組み、ウイルケンス・ソト組に快勝。坂口はバーンジールを一蹴した。

  ※坂口の加入と、テレビ放映の開始は、当時、累積赤字がかさみ、倒産寸前だった新日本プロレスを救ったといわれる。猪木と坂口との「黄金コンビ」の登場が、毎週のテレビ中継で新日本プロレスのイメージをアップし、また実際に、放送料も収入となって、企業を支えた。
  当時は、テレビ放映料が団体の重要な収入源であり、テレビ局のない団体は存続が難しかった。以前「東京プロレス」を旗揚げ、運営した猪木はそのことを十分、熟知していた。猪木は「テレビなんかなくても、やれる!」と語っていたが、それが、単なる強がりであることを誰もが知っていた。
5月 4日
ゴールデンファイトシリーズ第1戦の川崎大会でタイガー・ジート・シンが乱入し、小鉄を襲う。藤波ら若手が止めに入るも、蹴散らされてしまった。シンは、強引にシリーズ参加を決める(シンは観光ビザで入国していたため香港でビザを切り替え、8日から参戦したという) まさに、前代未聞の乱入劇であった。
エピソード
「シン乱入!そのとき藤波は」にリンク


5月25日  岐阜で、猪木とシンの最初の一騎打ち。シンの狂乱ファイトは観客の度肝を抜き、最後は興奮した猪木が反則負けとなるが、殴る蹴る、そして凶器サーベルを使うまさに狂乱の対戦は、会場を盛り上げ、一気に話題になった。

 当時、逮捕され拘置された歌手の吉田拓郎が、面会に来た人に「昨日の猪木とシンはどうなった?」と聞いた、という芸能ニュースが流れた程、世間の関心を集めた。なお、この日の藤波は、前座試合で浜田に逆さ押さえこみで勝つ。
 7月27日  この日のワールドプロレスリングで、23日の名古屋市体育館大会が放映され、藤波がテレビ初出演。シスコ・グリマルドに惜敗。
 (この項目については、詳細が確認できません。情報をお寄せください)
 8月 3日  小豆島でミニキャンプをはる。(6日まで)

            
9月 2日
 闘魂シリーズが開幕(10月12日まで全28戦)このシリーズの途中で、藤波は腰と膝を負傷してしまい苦戦が続いた。
 9月 5日  藤波はアールメイナードと対戦。メイナードは、赤銅色の精悍な顔つきから「青銅の魔人」と呼ばれた精鋭。

藤波は、試合開始後から、果敢に攻めるも、体力もキャリアも、またテクニックも違う。メーナードの必殺のバックブリーカーをくい、万事休す。なお、この試合が藤波のテレビでの初放映という話もあったが、これは違う。

 ※この頃、藤波は、シリーズ参加の外人選手と連日のように対戦し、鍛えられていった。メンバーは、クレイトン・トンプソン、ウエイン・ブリッジ、エル・サント、そしてアナコンダ。連日の敗戦の中、9月29日、堺市金岡体育館で、ついに、アナコンダに7分10秒・逆片エビ固めで勝利する。また、どうしても勝てなかった先輩の北沢(当時は魁)選手にはじめて勝利する(10月4日。宇和島大会。10分1秒・逆さ押さえ込み)など、徐々に実力をつけてゆく、若き藤波の貴重な時期であったといえる。
10月 6日
 藤波はオフで、後楽園ホールへ。日本プロレス時代からの友人・佐藤昭夫(当時、全日本プロレス所属)と、鶴田の凱旋帰国第1戦を観戦(ムース・モロウスキー戦)。

10月14日 この日、蔵前国技館で特別興業。猪木・坂口組が、テーズ・ゴッチの最強コンビに挑戦。当時57歳のテーズが、坂口にバックドロップを見事に決めて先制。2本目は坂口が奮起し、3本目は猪木がゴッチに回転足折りで、あざやかに勝利し、90分3本勝負の「世界最強タッグ決定戦」を勝利した。なんといっても、テーズ・ゴッチ組を破るという黄金コンビの名勝負であった。
  なお、この日も藤波は、第2試合で浜田と対戦した。
10月26日 
闘魂シリーズ第2弾の開幕。永源遙が米国より帰国し新日本に参加。
11月 5日 タイガージェットシンが新宿伊勢丹前で猪木を襲う。これが世に言う「新宿伊勢丹襲撃事件」で、マスコミにも大きく取り上げられた。シンが、ジャックルージョーらとともに猪木を遅い、路上で流血させた事件で、会場外での乱闘は、ファンはもとより、世間一般にも強烈なインパクトを与えた。

この話題づくりは秀逸で、一般書籍の「遠藤周作と北杜夫の対談集」でも「本気でやっている」と評判に。(「狐狸庵対マンボウ」)
 なにしろ、当時は、プロレスの話題が一般書に取り上げられることは稀であったし、それだけ猪木とシンの対戦は殺気を帯びていた証といえる。


          
            当時のパンフレットより

 ※猪木対シンの抗争が新日本の「黄金カード」となって、全国の会場に超満員のファンが 詰めかけるようになった。このころの新日本プロレスにとって、タイガー・シンという存在は大きく、まさに「救世主」であった。
11月26日  藤波は初めてタイガー・シンと対戦。柴田と組んでの2対1の変則マッチだったが、当然ながら、まったく歯が立たず、先輩の柴田がコブラクローで敗れた。

11月30日 シリーズ最終戦、福山で猪木とシンが、初のランバージャック・デスマッチで対戦。これは、若手中堅選手がぐるりとリングを取り囲み、場外に逃げようとすると、容赦なくリング内に押し返すルール。闘っている両者は凄惨なことをやっているが、周りの若手選手は落ちそうになる猪木やシンをリングに押し返し、初めてのやり方に、思わず楽しそうにやってしまい、リング内と外との雰囲気のギャップがあった。のんびりとした「ペーソスあふれる試合方式」だった。
12月 6日 猪木が記者会見し、ミュンヘンオリンピックの吉田光雄の入団を発表。この吉田(のちの長州力)の加入について、藤波は「(ライバルが増えたというより)人数が一人でも多くなれば、嬉しかった。才能のある選手が入って、仲間が増えたと喜んだ」と語っている。
12月10日 東京体育館で、猪木がジュニーパワーズを破り「NWF世界ヘビー級タイトル」を奪取。これこそ、まさに、猪木が保持し、「闘うチャンピオン」として数々の名勝負をする、新日本プロレスの看板となるタイトルの奪取であった。
12月13日 ワールドチャレンジシリーズの最終戦が静岡で行われる。なお、このシリーズ直後、藤波と小沢のシンガポール遠征の話が持ち上がるも、直前でキャンセルとなった。
12月28日 この日、藤波は20歳になった。


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